第7章・第3部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 05:02 UTC 版)
「インドの遺跡におけるペルシア語の碑文」の記事における「第7章・第3部」の解説
第3部では、インドのムガル・ペルシア建築を扱う。 インドのペルシア・スタイルの建築と言語の影響は、トゥグルク朝から始まり、さらに、その後の統治王朝はすべて、ペルシャ語と文化が支配する地域である大ホラーサーン地域からきていた。ムガル朝もまた大ホラーサーン由来のため、この本はムガル建築をホラーサーンまたはペルシア様式の建築と表現している。(詳しくはムガル建築の項目参照) 砂岩と大理石で作られたムガル朝の墓は、ペルシアの影響を際立たせている[1] 。この時代の建築業績の中には、アーグラ城塞(1565–74)と城壁に囲まれた都市ファテープル・シークリー(1569–74)、シャー・ジャハーン(1628–58)によってムムターズ・マハル皇妃の墓として建設されたタージ・マハルがある[1]。二重のドーム、凹んだアーチ、白い大理石と公園、対称性と細部に重点が置かれたタージ・マハルには、シャー・ジャハーン時代の建築の重要な要素が数多く含まれている[2]。建物の壁にはコーランの詩が刻まれたが、生物の描写(インドのイスラム以前の芸術的伝統の本質的な部分であった)は、イスラームによって禁止されている。
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