第3フェーズ:ゲリラ戦(1900年9月から1902年5月)
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「ボーア戦争」の記事における「第3フェーズ:ゲリラ戦(1900年9月から1902年5月)」の解説
英国は1900年9月までにトランスヴァール北部を除く両方の共和国を管理していた。しかし、彼らは分隊が物理的に存在する間を制御するのみであった。分隊が町または地区を去るとすぐに、その領域での英国の制御は消えて行った。25万人の英国軍兵士では2つの共和国が有する巨大な領域を効果的に制御するのは不可能であった。英国軍の分隊同士に巨大な距離があるため、ボーア軍の特別攻撃隊(コマンド部隊)はかなり自由に動き回ることができた。ボーア人指揮官も、ゲリラ戦のスタイルを採用することに決めた。 特別攻撃隊は、いつでも英国人に対し攻撃してよいとの命令を与えられており、各人の出身地区に派遣された。彼らの戦略は、敵に可能なかぎりの損害を与え、敵の増援が到着する前に移動するというものであった。西トランスヴァールのボーア軍特別攻撃隊は、1901年9月以後非常に活発に活動した。 いくつかの重要な戦いが1901年9月から1902年3月の間に起こった。 1901年9月30日、Moedwilで、そして10月24日、ドリエフォンテーン (Driefontein) で、デ・ラ・レイ将軍の軍は英軍を攻撃するが、強い抵抗に遭い、退却を余儀なくされた。 1902年2月には、次の大きな戦いが起こった。2月25日にデ・ラ・レイが、Wolmaranstadの近くのYsterspruitで英軍を襲撃したのである。デ・ラ・レイは敵の分隊を捕虜とし、彼の率いる部隊が相当の長期間にわたって活動できるだけの大量の弾薬を鹵獲することに成功した。 デ・ラ・レイのボーア軍は、メシュエン卿 (Lord Methuen) に率いられた英国軍をVryburgからKlerksdorpまで追跡した。1902年3月7日の朝、ボーア軍はTweeboschで移動しているメシュエンの後衛を攻撃した。これにより英軍は混乱に陥り、メシュエンは負傷しボーア軍の捕虜となった。Tweeboschの戦いは、デ・ラ・レイの勝利のうちの1つであったが、ボーア軍のこの勝利は、英軍のより強い反応を引き出すこととなってしまった。 1902年3月の後半には、英軍の大規模な増援が西トランスヴァールに送られた。英国軍が待ちに待った機会は1902年4月11日、Rooiwalで訪れた。ここでGensの軍と合流したのである。Grenfell、Kekewich、Von Donopは、ケンプ将軍の軍と接触した。英軍兵士は山の側に配置され、ボーア軍の騎馬攻撃を十分な距離を持って迎撃し、存分に打ち倒した。これは、西トランスバール戦争、更にはアングロ・ボーア戦争の最後の大きな戦闘であった。
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