第2回・略奪と暴行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 04:03 UTC 版)
詳細は「コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)」を参照 1204年4月に攻撃を開始したが、今度は東ローマ側も慣れてきており、十字軍側の苦戦が続いた。しかしコンスタンティノープル城内にはヴェネツィアの居留民が大勢住んでおり、彼らが東ローマへの抵抗に回ったため、東ローマ側も防衛は苦しいものだった。12日になり十字軍側が城壁への侵入に成功し、これを見たアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わって皇帝となったラスカリスも抵抗を断念し逃亡した。 東ローマ側は抵抗をやめたが、都市に侵入した十字軍はコンスタンティノープルで破壊と暴行の限りを尽くした。アギア・ソフィア大聖堂に立てこもった者も含めた聖職者、修道士、修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦された。総主教座には娼婦が座り込んで卑猥な歌をわめきちらした。市街のみならず聖堂や修道院でも略奪が行われ、貴重な品々は持ち去られるか、持ち帰れないものは破壊された(コンスタンティノープル競馬場などの歴史的建造物も略奪・破壊されている)。こうしたコンスタンティノープルに対するヴェネチアと十字軍の暴行は、彼らが東ローマ帝国の信仰を自分達と同じキリスト教のものであるとは考えていなかった事を示している。 コンスタンティノープル攻撃を東ローマから見た記録としては、コンスタンティノープルを命からがら脱出した政治家ニケタス・コニアテスの著書が詳しい。
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