第六次シリア戦争(前170年 - 前168年)
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「シリア戦争 (プトレマイオス朝)」の記事における「第六次シリア戦争(前170年 - 前168年)」の解説
第六次シリア戦争の原因は不明だ。紀元前180年、プトレマイオス5世が死亡した後、彼の継承者プトレマイオス6世もまた幼い君主だったため、母后のクレオパトラ1世が摂政を務めた。アンティオコス3世の娘でもあったクレオパトラは、エジプト宮廷で親セレウコス派と提携したが、紀元前176年にクレオパトラが死去し、国王の新しい後見人となった宦官出身のエウラエウスとレナイウスがセレウコス朝に対して冒険的な政策を追求しながら、両国関係は再び戦雲が漂った。紀元前170年、プトレマイオス朝はセレウコス朝に宣戦したが、戦略的要地のコイレ・シリアとパレスチナを失った状況で、それは間違いだったことが明らかになった。同年11月、反撃に乗り出したセレウコス朝のアンティオコス4世は、エジプトの関門に当たるペルシウムを陥落させ、アレクサンドリア郊外にまで進軍した。摂政が入れ替わったエジプト宮廷は講和交渉を打診し、アンティオコス4世がプトレマイオス6世の後見人となる条件に合意した。 しかし、屈辱的な講和条件に反発したアレクサンドリアの貴族と市民がプトレマイオス6世の弟プトレマイオス8世を擁立したことで、エジプトは2人の国王が争う内乱状態となった。アレクサンドリアを包囲したが、海上路での補給は遮断できなかったアンティオコス4世は、近東問題がより急を要する事情もあり、紀元前169年末にエジプトからしばらく退却した。セレウコス軍が撤退すると、プトレマイオス6世とプトレマイオス8世は和解し、ローマに支援を求めた。紀元前168年、プトレマイオス朝への影響力喪失に怒ったアンティオコス4世はエジプトに再び侵攻し、キプロスとナイル川流域を掌握した勢いに乗ってアレクサンドリアへ押しかけた。この際、マケドニアを平定したローマはエジプト問題に強く介入し、元執政官のガイウス・ポピッリウス・ラエナスを急派しており、無条件的な撤退を最後通牒として伝えた。ローマと対決できなかったセレウコス朝はこれに屈服し、プトレマイオス朝はたとえ名目上の主権は維持したが、ローマの従属国に転落した。
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