第六回使節とは? わかりやすく解説

第六回使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「第六回使節」の解説

1272年文永9年至元9年4月又は12月、元使である女真人趙良弼らは、日本が元の陣営に加わることを恐れ三別抄妨害を受けながらも、6度目使節として再び日本到来。 『元朝名臣事略』野斎公撰墓碑によれば趙良弼使節団到来すると、日本の「国主」はクビライ宛に返書し和を議そうとしたが、日本が元の陣営に加わることを警戒した南宋より派遣された渡宋禅僧・瓊けいりん)が帰国して趙良弼らを妨害したため、趙らは返書を得ることができなかったという。また、賛皇復県記』にも、南宋自国と近い日本が元の陣営に加わることを恐れて、瓊遣わして妨害したとある。さらに趙良弼らは大宰府より日本国都京都)に入ることができなかったことから、遂に元に帰還した6月帰還した趙良弼は、日本君臣爵号、州郡の名称とその数、風俗産物クビライ報告したクビライは、途中で引き返すなど日本未到着のものも含む合計6回、日本使節派遣したが、服属させる目的達成できなかったため、武力侵攻決断する。これに対して趙良弼は、日本侵攻無益クビライ説き「臣は日本に居ること一年有余日本民俗見たところ荒々しく獰猛にして殺を嗜み父子の親孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水多く田畑を耕すのに利がありません。その人日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師軍船)が海を渡るには、海風定期性がなく、禍害測ることもできません。これでは有用民力をもって無窮の巨壑(きょが)(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに日本を)討つことなきがよいでしょう」と述べ日本侵攻反対した。これを受けてクビライは一旦は趙良弼諫言かんげん)に従った

※この「第六回使節」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「第六回使節」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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