第六回使節
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1272年(文永9年・至元9年)4月又は12月、元使である女真人の趙良弼らは、日本が元の陣営に加わることを恐れる三別抄の妨害を受けながらも、6度目の使節として再び日本に到来。 『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑によれば、趙良弼ら使節団が到来すると、日本の「国主」はクビライ宛に返書し和を議そうとしたが、日本が元の陣営に加わることを警戒した南宋より派遣された渡宋禅僧・瓊林(けいりん)が帰国して趙良弼らを妨害したため、趙らは返書を得ることができなかったという。また、『賛皇復県記』にも、南宋は自国と近い日本が元の陣営に加わることを恐れて、瓊林を遣わして妨害したとある。さらに趙良弼らは大宰府より日本の国都(京都)に入ることができなかったことから、遂に元に帰還した。6月に帰還した趙良弼は、日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗と産物をクビライに報告した。 クビライは、途中で引き返すなど日本に未到着のものも含む合計6回、日本へ使節を派遣したが、服属させる目的が達成できなかったため、武力侵攻を決断する。これに対して趙良弼は、日本侵攻の無益をクビライに説き「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(きょが)(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきがよいでしょう」と述べ、日本侵攻に反対した。これを受けて、クビライは一旦は趙良弼の諫言(かんげん)に従った。
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