第五軍門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「第五軍門」の解説
第五軍門 (Πόρτα τοῦ Πέμπτου) はリュクス川のすぐ北方、第77塔と第78塔の間にあり、その名はリュクス川付近のペンプトン(Pempton "第五"の意)地区にちなんでいる。第五軍門は損傷が激しいうえ、ビザンツ後期かオスマン期に大幅に修復された跡がみられる。ビザンツ時代には聖キリアキ(教会)の門とも呼ばれ、トルコ語ではスルクレカプ(Sulukulekapı "水の塔の門"の意)と呼ばれている。また1453年の最後の包囲戦で、5月29日にオスマン軍がこの門からなだれ込んで戦いの趨勢を決定づけたことから、ヒュジュム・カプス(Hücum Kapısı "攻撃の門"の意)とも呼ばれる。19世紀後半には、ヨリュリュ・カプ(Örülü kapı "壁に覆われた門"の意)とも呼ばれるようになった。 ジョン・バグネル・ベリーやケネス・セットンら初期の学者は、この第五軍門こそが、コンスタンティノープル陥落の最終段階でオスマン軍に破られたとされる聖ロマノスの門であるとしている。その根拠として、この門がテオドシウスの城壁の中でも、「大砲の門」をも凌ぐ最も脆弱な地点であることが挙げられる。
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