笠原良策
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笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(1809年6月22日) - 明治13年(1880年)8月23日)は、江戸時代末期(幕末)の蘭方医。名は良、字(あざな)は子馬、号は鉄仏無涯堂、天香楼、桂窓、白翁。福井藩の町医。越前国足羽郡深見村(現・福井市)生まれ。父は福井城下の町医笠原龍斎。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩(府中・鯖江・大野・敦賀・大聖寺・金沢・富山)に種痘を広めた。
- ^ 地域蘭学者門人帳人名データベース 国立歴史民俗博物館ウェブサイト
- ^ 福田源三郎『越前人物志』中、p.370-377(国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『福井市史』資料編9、pp.226-232および解題。
- ^ 『福井市史』資料編9、pp.232-236。中根雪江によれば、これらの願書は、嘉永2年(1849年)4月、同様な「苗性変渝」を理由に老中阿部正弘から差戻しとなったとしている(『奉答紀事』p.119)。
- ^ 『種痘伝来』pp.147-150。
- ^ 『白神記』p.90。
- ^ 『白神記』p.1-2・75・80。これは小瓶に入った8粒の痘痂であった。京都で受けとった日付けについては、9月16日、19日、22日と笠原の書状のなかでも混乱がある。
- ^ 『戦兢録』p.2。
- ^ 『戦兢録』p.3。
- ^ 笠原は、いまだ国許へ「受苗」していない段階ではあるが、大坂は京都同様の大都市であり、かの地に種付くならば「益根本堅固」となり、また緒方らも「不凡の人々」であることから「本月朔日伝苗致置申候」、と記している(『白神記』p.11)。さらに、種痘法の伝授を請われたため、11月6日に日野鼎哉の門人の西村啓蔵が小児を雇い日野とともに下坂、11月7日に小児8名に笠原・緒方・日野らが執刀し、10日まで大坂に滞在して順調に「見点」が出ていることを診断した上で帰京した(『白神記』pp.11-13。『戦兢録』p.6・7)
- ^ 『戦兢録』pp.8-9
- ^ 笠原は11月16日接種と19日接種の2サイクルで種痘を計画し、実施した(『白神記』p.9・23。柳沢「福井藩における藩営除痘館の開設とその運営」p.60)。安政元年以降に書かれた笠原の嘆願書には、この京都から福井までの旅に同行した子どもの人数は福井から呼び寄せた子3名、京都の子2名の計5名で、「両親相添都合」総勢15人であったとしている(『福井市史』資料編9、p.286)。
- ^ 笠原は、万一、福井城下での最初の種痘が失敗に終わった時のために、斎藤ら府中の医師に依頼して今庄で小児3人を待ち受けさせ、このうち1人に内々に接種していた(「府中社中の義ニ付口上書」『白神記』p.234)。
- ^ 斎藤策順、生駒耕雲は、福井藩府中本多家の目見医師、渡辺静庵は府中町医。「中判役御料理方 雑類 御徒目付」資料画像 デジタルアーカイブ福井(福井県文書館)
- ^ 側用人。福井県文書館資料叢書9『福井藩士履歴』1、2013年、p.37。
- ^ 匙医師。福井県文書館資料叢書13『福井藩士履歴』5、2017年、p.234。
- ^ 「除痘館誓約」『福井市史』資料編9、1994年、pp.274-276。
- ^ 柳沢「福井からの痘苗の伝播と鯖江藩の種痘」p.55、表1。
- ^ 『白神記』p.33。
- ^ 『白神記』p.44。山崎佐「福井藩種痘の由来(2)―笠原白翁のこと―」『日本医師会雑誌』43巻9号、p.785。
- ^ 『白神記』p.36。
- ^ 館則を侵さない、館外で種痘を行わない、種痘の会期を守る、利を貪らないなどを定めた。『福井市史』資料編9、1994年、pp.274-276。
- ^ 『福井市史』資料編6、1999年、p.490。
- ^ 『白神記』p.131-134。
- ^ 伴「笠原白翁の種痘普及活動(Ⅰ)―安政元年以降の村次伝苗を中心として―」『実学史研究Ⅱ』p.166。
- ^ 柳沢「福井藩における藩営除痘館の開設とその運営」pp.52-54
- ^ 彦根藩医(河村家)が写した下江戸町の除痘館の見取り図が残されている(柳沢「福井藩における藩営除痘館の開設とその運営」p.54)。「牛痘所図面」河村文庫画像データベース 滋賀医科大学附属図書館蔵
- ^ 福井藩除痘館の「手続書」の詳細については、海原亮『江戸時代の医師修業』pp.197-206を参照。「越ノ前州 除痘館手続書」河村文庫画像データベース 滋賀医科大学附属図書館蔵
- ^ 柳沢「福井藩における藩営除痘館の開設とその運営」p.47・56
- ^ 伴「笠原白翁の種痘普及活動(Ⅱ)―安政元年以降の村次伝苗を中心として―」『実学史研究Ⅲ』pp.151-194。
- ^ 福井藩の中判役・御料理方も含む雑輩の人事記録である「中判役御料理方 雑類」では、「良策改名シテ白翁ト云」とある「雑録」松平文庫、福井県文書館保管。
- ^ 「笠原白翁履歴」1873年、越前史料。福井県文書館で複製本で閲覧可能
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.53
- ^ 「笠原白翁(良策)は、幕末に天然痘の予防接種である種痘を普及させたことで知られているが、この時使っていた種痘針を作っていたのは誰か?」国立国会図書館レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000272811
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