仮除痘所と種痘継続の難しさ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 21:17 UTC 版)
「笠原良策」の記事における「仮除痘所と種痘継続の難しさ」の解説
笠原は、福井城下浜町自宅の隣家(25畳)を購入・改造し、「除痘館誓約」を定めて、仮の除痘所とした。この時、運営に関わったのは惣裁となった笠原のほか、三崎玉雲・大岩主一など10名ほどの町医であった。翌嘉永3年(1850年)2月、福井藩は、種痘後に再感することはなく、除痘所に年々20俵ずつ下付するので謝礼の支払いなく町在広く療治を受けるよう触書を出した。あわせて藩医3名を種痘係として、奥医師のうち1名が館に詰めることを命じたものの、種痘に対する人びとの抵抗は予想以上に大きく、藩医からの反発や中傷も激しかった。 盛夏と厳冬・年末年始には被種痘児がとくに集まりにくく、種痘が継続できずに痘苗が絶えてしまう危険性が高まった。実際に、笠原が痘苗を分けた福井藩内の府中・金津および大野藩では、翌年の嘉永3年(1850年)秋頃までに断絶してしまった。鯖江藩、大聖寺藩、富山藩でも絶苗の年月日は不明であるが、嘉永5年(1852年)から安政2年(1855年)までに再伝苗が必要だった。嘉永3年(1850年)秋には笠原社中の医師たちであっても、町医としての家業との両立は難しく欠席・遅刻がちとなり、さらに年末年始には、菓子料や手間代を払っても被種痘児がほとんど集まらない状況になった。笠原の財政的な逼迫も次第に深刻になっていった。
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