笘屋久五郎一件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 03:04 UTC 版)
「松浦信正 (河内守)」の記事における「笘屋久五郎一件」の解説
馬場文耕『近代公実厳秘録』巻二「松浦河内守大坂町奉行の事」に記載がある。大岡政談「小間物屋彦兵衛之伝」のモデルとなった。 信正が大坂町奉行に在任中、高麗橋筋の両替商笘屋久五郎が金500両を盗まれた。一家は手代忠七を疑ったが、罪を認めなかったため、奉行所に連行し、見せしめのため拷問にかけてくれるよう要請した。 しかし、忠七はいかなる拷問にも屈せず、一切を認めなかったため、信正は笘屋一家を白州に招き、「忠七は盗んでいないと言っている。ほかに証拠はないのか。」と尋ねた。一家は口を揃えて「不届き者なので中々白状しないが、きゃつが盗んだに間違いない。」というので、信正は「それほど言うのなら間違いなかろうが、自白も証拠もなければ仕置しようがない。あなた方が証文を提出してくれれば、斬首にしよう。」といい、一家は「忠七が500両を盗んだことに間違いございません。」と証文を認めて提出した。 ところが、翌年天満で捕縛された盗賊次郎三が笘屋一件について自白し、忠七の無実が明らかとなった。信正は笘屋一家を呼び、「あなた方は卒忽だ。あなた方の証文のせいで、私は無実の者を殺してしまった。忠七の下手人として残らず斬首しなくてはならない。自分も役儀が立たないので、切腹するほかない。」と言った。 一家が生きた心地せずに控えていると、信正は笑って「下々の者は卒忽だ。そんなこともあろうかと、まだ忠七を殺さないでおいた。」といって忠七を牢から出し、笘屋に忠七に対し保養金として500両の支払いを命じ、それを過料として笘屋の不調法は免罪とした。その後、笘屋と忠七は和解して商売は栄え、信正は幕府内で昇進を続けた。
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