穀倉院学問料
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:26 UTC 版)
詳細は「学問料」を参照 大学寮紀伝道の学生である文章生から選抜されて支給された奨学金である学問料は、勧学田(学料田)と呼ばれる田地からの貢租によって学生を寄宿させ、食事を給付していた。しかし、その主たる面積を占めていた加賀国の旧大伴家持没官領が、藤原種継の暗殺事件関係者の名誉回復に伴い、当時の官界の実力者伴善男の要求で伴氏(旧大伴氏)に返還されることとなり、その後、応天門の変(貞観8年(866年))によって伴善男が流罪となり、再度当該地が没官された後に大学寮ではなく、穀倉院に編入されたことから経営基盤を失った大学寮と新たに当該地を得た穀倉院の間で対立が生じた。そこで、穀倉院から一部学生への学問料支給を行うことで大学寮側からの不満の緩和に努めた、これを、穀倉院学問料という。 穀倉院は、この頃には、律令制の弛緩によって不足する内廷費用を捻出するための一種の「裏金」捻出の役割を担っており、穀倉院領となった旧勧学田を大学寮に返還することは、財政政策上採るところではなかった。朝廷はその代償として、穀倉院から学問料の支給を開始したと考えられている。
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