小野美材
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/26 05:40 UTC 版)
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| 時代 | 平安時代前期 |
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 延喜2年(902年) |
| 官位 | 従五位下・大内記 |
| 主君 | 光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
| 氏族 | 小野氏 |
| 父母 | 父:小野俊生または小野忠範 |
| 子 | 忠時 養子:高向利春 |
小野 美材(おの の よしき)は、平安時代前期の貴族・文人・能書家。参議・小野篁の孫。大内記・小野俊生または大内記・小野忠範の子。官位は従五位下・大内記。
経歴
文章生から仁和2年(886年)文章得業生を経て、寛平4年(892年)対策に及第し、寛平6年(894年)少内記に任ぜられる。この間の元慶4年(880年)には史上初めて穀倉院学問料の支給を受けたともされる[1]。
寛平9年(897年)従五位下・大内記に叙任され、のち伊予権介・信濃権介と地方官も兼ねた。延喜2年(902年)卒去。
人物
書に卓越し、寛平9年(897年)の醍醐天皇の大嘗会にて、悠紀主基屏風の色紙形の清書を行っている[2]。また、大内裏の西面三門(談天門・藻壁門・殷富門)の額字を書いたとされる[3]。なお、他の三面は三筆の手による物(南面・弘法大師、北面・橘逸勢、東面・嵯峨天皇)とされており、美材が三筆に比肩する腕前と見られていた様子が窺われる[4]。
また詩文にも秀で、漢詩作品が『本朝文粋』や『菅家後集』に採られるとともに、勅撰歌人として『古今和歌集』に2首、『後撰和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[5]。
官歴
『古今和歌集目録』による。
- 仁和2年(886年) 日付不詳:秀才
- 仁和3年(887年) 2月17日:越中権掾
- 寛平4年(892年) 5月28日:対策及第
- 寛平5年(893年) 正月11日:伊勢少掾
- 寛平6年(894年) 正月15日:少内記
- 寛平9年(897年) 7月23日:大内記。7月13日:従五位下
- 昌泰2年(899年) 2月11日:兼伊予権介
- 昌泰3年(900年) 2月20日:兼信濃権介
- 延喜2年(902年) 日付不詳:卒去
系譜
脚注
参考文献
- 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 下巻』戎光祥出版、2009年
- 永由徳夫「日本能書列伝(一) ─ 日本古書論を典拠として ─」『群馬大学教育学部紀要 人文・社会科学編』第66巻、群馬大学教育学部、2017年
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