穀倉としての校倉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 07:09 UTC 版)
前述のように校倉は律令制の下で租税を貯蔵する必要に迫られたことから発生したと考えられる。ゆえに、校倉造の考察にあたっては現存しない穀倉(穎倉)としての姿を考慮する必要がある。当時は稲穂をバラ積みで保存していたと考えられており、校木による強固な壁の構造は、貯蔵した稲穂による内部からの圧に耐えるのに適していたからだと考えられる。中に入ると塞と呼ばれる出納に供する小さな作業空間があり、その空間に積み上げた稲穂が崩れ落ちてこないように、板を積み上げて空間を確保していたと考えられる。したがって稲穂の出納は塞に梯子などを据えて高所から行ったと想像される。唐招提寺経蔵は新田部親王邸にあった穀倉の転用とされるが、梁には梯子を掛けたと思われる穴が残っている。 貯蔵量についてはバラ積みされた稲穂の体積(斛・こく)で記録していたことが文献資料から分かっている。一般的な建造物は柱間寸法(柱と柱の中心間距離)を完数(整数)とするが、校倉は平面形状が単純な矩形かつ内法寸法が完数で、積み上げ高さを測れば簡単に貯蔵量が分かるようになっていたと考えられる。また壁の内部側が平滑であることも、貯蔵法に適っていたと考えられる。
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