石川県時代
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1876年(明治9年)- 4月18日公布の太政官布告第53号の「新川県ヲ廃シ石川県ヘ合併」により、新川県内は全域が石川県へ合併され、本村該当区域は石川県下となる。6月、石川県は大区小区を改正して、浜黒崎村該当区域は第二大区小七区所属となる。 1877年(明治10年)- 2月、西南戦争勃発。現富山県内の出征兵士においては戦死者36人、当村域内からは2名が官軍兵士として出征する。 1878年(明治11年)- 9月、村社たる白山社に地主社、神明社、春日社、諏訪社、高畠社を合祀し、境内の老松樹の名によって常磐神社と号する。11月、高来社の社殿を再建。12月、石川県内における7月22日公布の太政官布告第17号郡区町村編制法施行により、大区小区制は廃止され、郡及び町村が復活する。石川県内の現富山県域内には礪波、射水、婦負、上新川、下新川の郡役所を設置し、当村域内は上新川郡所属となる。 1879年(明治12年)- 1月、大区小区制廃止に伴う1878年(明治11年)太政官布告第17号郡区町村編制法にいう戸長制導入に基づき、浜黒崎村、針原横越村、平榎村、辻ヶ堂村、野中村、野田村、高来村、日影村、針木村、下飯野村、楠木村、道正村、針原中村、町袋村、三上村、畠等村、宮成村、宮条村、小西村、一本木村、高島村、宮村、宮成新村、中屋村、新保村、野中新村、中野新村の28箇所の戸長役場を浜黒崎に置き、日方江村は大村戸長所属となる。
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