真珠に関する特許
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 05:17 UTC 版)
1907年(明治40年)、真円真珠の特許を出願(特許38318号)するが西川藤吉の特許に抵触するとして紛争となる。そのため、まず器具の特許をとる事にした。これが前述の特許12598号である。この紛争は、先に発明した西川藤吉か先に出願した見瀬辰平か、という争いで、先発明主義か先願主義かいう意味では、日本で初の争いであった。 1908年(明治41年)9月2日、調停の末、西川藤吉名で特許を取得した後、特許を共有する契約が成立する。見瀬には不利な決着であった。このことについて見瀬は自身の手記で「西川藤吉は病気により死期が迫っており早期に解決しなければいけない。」「真珠養殖の発展のために紛争を長引かせてはいけない」と書いていて、見瀬の人間性をかいま見ることができる。「人物叢書 御木本幸吉」を書いた大林日出雄は「研究者・発明家としても、事業家としても、はがゆいほどの態度」と書いている。 この特許は海外では「Mise-Nishikawa Method」として知られている。 1919年(大正8年)にフランスで「第501447号真珠形成方法」、1920年(大正9年)にアメリカで「第39506号真珠形成方法」の特許を取得している。これらは真珠に関して日本人で初めて外国で取得した特許となる。
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