直平の死諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 06:31 UTC 版)
『井伊家伝記』では今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、直平は氏真と共に出陣するも白須賀で陣を敷いていた直平の軍勢から南からの強風が原因で出火し白須賀のあちこちの集落が焼き払われ、その件で軍中では直平が井伊直親の殺害を氏真が命じたことの件で怨んでいたので白須賀を焼いて軍の最後尾に被害を与えたのではないかという悪い評価がなされ、直平は火事のことに関して不慮の事故だと説明するも、過失の埋め合わせとして今川の家臣だった天野左衛門尉が武田方に従ったことを知った氏真が、曳馬城の城主だった直平に鎮圧を命じ、直平が出陣の支度をしている時に、家老の飯尾連竜の室・お田鶴の方に毒茶を勧められ、有玉旗屋の宿にて落馬し服毒死した。『井伊家伝記』の別の章には連竜が直平に毒薬を進め直平は服毒死したとある。これ以外にも敵の急襲を受け討死、服毒死(病死とも表現可能)など直平の死は諸説存在する。また直平の死後、従者の大石作左衛門が直平の遺体を故郷の川名に馬で運ぶと殉死した。 『井伊家伝記』によれば『徳川伝記』では「飯尾豊前守」ではなく「井伊豊前守」としているので、多くの本や軍記物でも「井伊豊前守」としている。これは、井伊直平が年老いていたので、出陣の際には、飯尾連竜が直平の名代として出陣していたので、「井伊豊前守」として聞き伝えられて記されていたのであると記されている。また、飯尾連竜が行った事が『井伊家伝記』や『井伊直平公御一代記』では直平が行ったこととして記されている。
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