百間川遺跡とは? わかりやすく解説

百間川遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:35 UTC 版)

百間川」の記事における「百間川遺跡」の解説

百間川は、岡山平野のほぼ中央部流れ旭川放水路であり、百間川改修工事の際に、中流域河川敷の下4カ所で集落遺跡発見され1977年昭和52年)より発掘調査が行われた。縄文後期から中世にかけての複合遺跡である。遺跡名は大字名冠しており、総称して百間川遺跡と呼ばれる弥生時代後期末には、水田がかなり広大に行われていたと推定されている。また、部分的に稲株跡が見つかっており、大きさその分状況から「田植えが行われていたと考えられている。 原尾島遺跡 原尾島(はらおじま)遺跡では、縄文時代後期から室町時代にかけての集落群発掘された。主には弥生時代後期から古墳時代にかけての集落鎌倉時代から室町時代にかけての集落中心である。 沢田遺跡 沢田(さわだ)遺跡弥生時代前期から古墳時代前期にかけての集落群遺跡である。特に弥生時代遺跡環濠囲まれていたことが確認されている。ここで発掘され弥生土器は現在、岡山市埋蔵文化財センター収蔵されている。 兼基今谷遺跡 兼基今谷かねもといまだに遺跡弥生時代から古墳時代にかけての遺跡鎌倉時代集落跡遺跡である。弥生時代遺跡からは水田跡や掘立柱建物群が発掘された。 米田遺跡 米田(よねだ)遺跡弥生時代から古墳時代にかけての遺跡と、奈良時代から室町時代にかけての遺跡である。特に奈良時代から室町時代にかけての遺跡では道路橋脚の跡や、掘立柱建物群が発掘されている。 笄の井戸 米田遺跡下手には「笄(こうがい)の井戸」がある。百間川遺跡群の南にある操山山塊の最東端部には戦国時代正木城があり、天正年間1573年 - 1592年城主正木大膳康正宇喜多直家攻められ落城した。その際康正の妻・玉尾の方は娘の初瀬抱いてこの井戸身を投げた後年、この2人供養したところ、井戸より笄と浮かび上がり、この井戸を「笄(こうがい)の井戸」と呼ぶようになったという伝承伝わっている。

※この「百間川遺跡」の解説は、「百間川」の解説の一部です。
「百間川遺跡」を含む「百間川」の記事については、「百間川」の概要を参照ください。

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