白血病発症とお別れまで?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:10 UTC 版)
「佐々木禎子」の記事における「白血病発症とお別れまで?」の解説
1943年1月7日、広島県に生まれる。名前は父、母が元気に育つようにと願いをこめて、店の客の姓名判断の先生に頼みつけてもらった。 1945年8月6日、2歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から1.6kmの自宅で被爆した。黒い雨にも打たれた。同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。1954年8月の検査では異常はなかった。運動神経が抜群で足が速く将来の夢は「中学校の体育の先生」になることであった。小学6年生の秋の運動会ではチームを1位に導いたが、その日付は1954年10月25日と記録されており、偶然にも自身の命日となるちょうど1年前であった。しかし、11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が解からぬまま1月18日、2月16日にABCC(原爆傷害調査委員会、現在の放射線影響研究所)で検査を受ける。2月18日かかりつけの小児科医の畑川先生からABCCの検査結果をもとに父親に「病名は亜急性リンパ腺白血病で禎子さんはあと3ヶ月、長くても1年はもたんでしょう」と告げられる。2月21日、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院。10月25日、朝、危篤となる。父親から食べたい物は何かと尋ねられた禎子は「お茶漬けを食べたい」と伝えた。家族が大急ぎで用意したお茶漬けをたくあんと共にふた口ほど食べ、「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう。」と呟いた。これが最期の言葉となる。 午前9時57分、担当の沼田医師が臨終を家族に告げる。 享年12歳
※この「白血病発症とお別れまで?」の解説は、「佐々木禎子」の解説の一部です。
「白血病発症とお別れまで?」を含む「佐々木禎子」の記事については、「佐々木禎子」の概要を参照ください。
- 白血病発症とお別れまで?のページへのリンク