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白川資訓

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/22 22:58 UTC 版)

 
白川 資訓
白川資訓
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保12年11月15日[1]1841年12月27日
死没 明治39年(1906年12月7日[1]
改名 白川資訓王→白川資訓
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 白川伯王家
父母 父:白川資敬王
兄弟 資訓、芳子、資義、雅好
正室:幾子(三条西季知の五女)
資長、縫子
養子:雅好
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白川 資訓(しらかわ すけのり)は、日本の公家華族子爵

経歴

山城国京都で、右近衛権中将・資敬王の長男として誕生[1][2]。旧名・資訓王[3]

嘉永2年3月29日1849年4月21日)に元服し昇殿を許される[1][3]嘉永4年8月14日1851年9月9日)神祇伯に就任[1][3]安政元年(1854年内裏焼失の際に神鏡を奉遷し孝明天皇より賞された[1]。同年12月18日1855年2月4日)侍従を兼ね、安政4年5月15日1857年6月6日)右近衛権少将を兼ねた[1][3]元治元年8月29日1864年9月29日)右近衛権中将に進んだ[1][3]

慶応4年1月17日1868年2月10日)神祇事務科が設けられ神祇事務総督に就任[1][4]。同年2月20日(1868年3月13日)参与神祇事務局補となる[1][4]。さらに議定、神祇事務局督を務めた[1][4]。明治2年6月1日1869年7月9日)神祇制度の改変により神祇伯が廃止され、伯王の称号も自然消滅した[5]。同年7月8日(8月15日)神祇大副に就任[1][4]。以後、神祇官出仕、神祇大掌典、大掌典、式部寮七等出仕兼大掌典、式部寮御用掛などを歴任し宮中祭祀に携わり、1873年11月3日、式部寮御用掛を免じられ退官した[1][4]

1884年7月8日、子爵を叙爵した[6]

栄典

系譜

  • 父:白川資敬王(1822 - 1851)
  • 母:家女房
  • 正室:幾子(1848 - 1906)三条西季知の五女[2]
  • 養子
    • 男子:白川雅好 - 実弟。戊辰戦争時はまだ嗣子だった[8]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『明治維新人名辞典』, pp. 516–516.
  2. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻, p. 763.
  3. ^ a b c d e 『公家事典』, p. 746.
  4. ^ a b c d e 『百官履歴』上巻, pp. 350–351.
  5. ^ 『公家事典』, p. 742.
  6. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  7. ^ 『官報』第5234号「叙任及辞令」1900年12月11日。
  8. ^ 新潟県西頸城郡教育会 編『西頸城郡誌』

参考文献

公職
先代
(新設)
神祇大副
1869年 - 1870年
次代
近衛忠房
先代
幟仁親王
神祇事務局督
1868年
次代
鷹司輔煕
神祇官知事
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
白川家初代
1884年 - 1906年
次代
白川資長



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