異邦人の改宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:26 UTC 版)
十数年にわたり伝道者として活動した後、パウロはキプロス出身のユダヤ人バルナバと、ギリシア人の改宗者テトスとともにエルサレムを訪れた。そこで、ユダヤ・「キリスト教徒」との間に異邦人の改宗者を巡って激しい議論が繰り広げられた。問題となったのはキリストの「道」に加わった異邦人たちは割礼を施されるべきか、またユダヤの律法に従う義務があるかどうかであった。ギリシア人の改宗者テトスは割礼を受けておらず、パウロはテトスを含む異邦人の改宗者への割礼に消極的であり、その姿勢が批難の対象となった。エルサレム教会で主導的な地位を持っていたペトロは異邦人伝道にはそもそも反対しておらず、むしろ既に承認していた。また、同じく指導的地位にあったヤコブは論争に決着をつけるため具体的な合意案を作りだし、異邦人への律法が承認されるとともに、異邦人はユダヤの律法に従うべきものとされた。この合意を伝える書簡がアンティオキアを初め、各都市の教会へ送られたが、すぐに食事の規定を巡ってトラブルとなりその中でペトロやバルナバは異邦人「キリスト教徒」」との付き合いをやめた。パウロはペトロの対応を批判し、西方への伝道を再開した。
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