王仁墳廟来朝紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 22:56 UTC 版)
また馬部は三之宮神社文書と共に購入した西村系図に「道俊 当国禁野和田寺住侶」と記されていることを指摘した。 馬部は、大学院仲間達と2004年創刊した学術ジャーナル「史敏」2005年4月の論文で木津の今井家から入手した津田村西村家の系図では王仁が始祖とされ、「王仁墳廟来朝紀」の時期に該当する近世初期の部分には「西村大学助俊秋」およびその次子として「禁野和田寺住侶道俊」の名が確認できること、 「王仁墳廟来朝紀」は和田寺に伝来したものではなく明治初年に藤坂村山中氏が入手したことを根拠に、「王仁墳廟来朝紀」は西村家の系図と関連づけて作成された椿井文書であるとした。 今井家から古文書類を購入したのは三松氏、三宅氏、上武氏であるが、「郷社三之宮神社古文書伝来之記」では三松は王仁の末裔と記載されている。 自著へ掲載する王仁像を物色していた西村天囚が、三松氏は百済王嫡流と聴いたので尋ねると、三松家伝統の宝物と珍重していたチンヂ様の木像を出し、王仁木像として掲載した。『日本宋学史』には「「王仁木像 木下順菴旧蔵」」と掲載されている』。ある学者がその木像は王仁ではなく王辰爾と説いたため百済王神社では辰爾王木像の絵端書が販売されたという。中山は「辰爾王の木像が王仁の換え玉」と、王仁と辰爾王が入れ替わったのを記している。三松家系図では三松家は百済王氏末裔と書かれ、辰爾王も登場、「三松家由来記」では辰爾の館跡が百済王神社という家伝が記されている。百済王神社は中宮にある。1682年『当郷旧跡名勝誌』では、王仁が「中宮村ニ殿作リシ居住アリ」という伝承が記録されている。[独自研究?]
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