独立会派時代
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「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事における「独立会派時代」の解説
エドワードがホイッグ党を離党すると、80名ほどのホイッグ右派がそれに従ってホイッグを離党した。その後、彼らはダービー派と呼ばれる独立会派を形成するようになり、トーリーとホイッグの間に立つ第三党を目指すようになった。 1834年10月に祖父である第12代ダービー伯爵が死去し、父が第13代ダービー伯爵位を継承したことで、以降エドワードはスタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号を使用するようになった。 スタンリー卿とその会派は、1834年12月に成立した保守党政権の第1次ピール内閣を支持した。しかし同内閣は野党の結集で1835年4月にも倒閣された。続いて成立したメルバーン子爵率いるホイッグ党政権から入閣要請を受けたが、メルバーン子爵がアイルランド独立運動家オコンネルに譲歩する構えだったのでスタンリー卿は入閣を拒否した。 1837年夏にヴィクトリア女王の即位に伴う解散総選挙(英語版)が行われたが、スタンリー卿の会派は60議席に落ち込んだ。これにより独自会派のままでは議会のキャスティング・ボートを握れる可能性が低くなった。そのためスタンリー卿は保守党と合流することを決意した。
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