独立以前の交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 14:31 UTC 版)
「日本とボスニア・ヘルツェゴビナの関係」の記事における「独立以前の交流」の解説
独立以前のボスニア・ヘルツェゴビナと日本の交流は、オーストリア=ハンガリー帝国やユーゴスラビアを介していた。特に1984年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国が開催した初めてかつ唯一のサライェヴォオリンピックでは、日本は選手団を送って北沢欣浩がスピードスケート男子500mで見事銀メダルを獲得している。また、開催都市招致の段階からサライェヴォと日本の札幌市はライバルであり、決選投票も行われて札幌は3票差という僅差でサライェヴォに敗れている。 その後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発。フォチャの虐殺、プリイェドルの虐殺、ラシュヴァ渓谷の民族浄化、スレブレニツァの虐殺といった凄惨な事件が次々発生し、欧州最大の紛争となった。これを受け日本は現地から殆どに日本人を帰国させ、また日本でも連日この紛争が報道された。紛争終結後、日本はボスニア・ヘルツェゴビナに対して多くの人道支援を実施した。なお、紛争はデイトン合意によって和平を迎えたが、日本は和平履行評議会の一国として和平維持を継続的に促している。
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