牛島辰熊に見いだされ拓大へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 21:12 UTC 版)
「木村政彦」の記事における「牛島辰熊に見いだされ拓大へ」の解説
1935年、同じ旧制鎮西中学OBであり、拓殖大学の師範を務めていた「鬼の牛島」の異名を持つ牛島辰熊の東京の自宅「牛島塾」に引き取られて激しい稽古を受ける。さらに1人で出稽古に回り1日10時間という練習量をこなし強さを磨いた。牛島は寝技が強く、また、乱取り中頻繁に当身(パンチ)を使ったという。牛島は全日本を5回制覇したが、天覧試合には病気で勝てなかった。そのため、弟子の木村にその夢を託したという。 右翼としての顔を持っていた牛島は東條内閣に批判的な石原莞爾と親交があり、1941年、石原が賛同していた津野田知重の東條英機暗殺計画に参加する。木村はその実行を担当する予定だった。しかし倒閣に賛成していた三笠宮崇仁親王が、計画の過激化を恐れ密告したことにより失敗に終わった。 1936年、学生柔道の団体戦として最もレベルの高い高専柔道大会に大将として出場し、拓大予科を全国優勝に導いた。また、木村は非常に研究熱心であり、拓大予科時代に「相手の腕を帯や道着を使って縛って抑える」という当時としては斬新的な技術を開発した[要出典]。世界中でこの技術は活用されている。また寝技だけでなく、立技から引き込み返しを掛けながらの腕緘、相手が自分の帯を握って頑張っている時に一度逆に振って腕緘に極める方法も木村が考案した[要出典]。
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