漢方復興運動
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1930年(昭和5年)古方派の湯本求真に師事して漢方医学の臨床を学び始め、1934年(昭和9年)には同門の大塚敬節、後世派の矢数道明らとともに、「日本漢方医学会」を結成し月刊誌『漢方と漢薬』を創刊した(他の幹事は、古方:湯本求真、奥田謙蔵、折衷派:木村長久、安西安周、中野康章、森田幸門、薬学:栗原廣三、木村雄四郎、鍼灸:柳谷素霊、医史学:石原保秀。編集兼発行人は春陽堂の気賀林一)。
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漢方復興運動
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1933年(昭和8年)、弟の有道が腸チフスに罹患し入院した際、近く(牛込区船河原町)に開業していた大塚敬節の往診を受け、起死回生の回復をみた。有道自身の見立てでは真武湯であったようだが、大塚は茯苓甘草湯証と見立て症状が好転して退院した。道明は後世派、大塚は古方派であったが、この出会いをきっかけに交流が深まり、以後、両名が中心となって流派を超えて大同団結し、昭和漢方復興の大きな牽引力となっていく。まず、1934年(昭和9年)に矢数道明、大塚敬節と清水藤太郎(薬学)が中心となり、「日本漢方医学会」を結成し月刊誌『漢方と漢薬』を創刊した(他の幹事は、古方:湯本求真、奥田謙蔵、折衷派:木村長久、安西安周、中野康章、森田幸門、薬学:栗原廣三、木村雄四郎、鍼灸:柳谷素霊、医史学:石原保秀。編集兼発行人は春陽堂の気賀林一)。ちなみに、道明と大塚敬節が出会った1933年(昭和8年)は、病院や医院等が広告に使用できる標榜科として「漢方科」を標榜することを禁止する内務省令が出された年であり、この頃が最も漢方医学が衰退していた時代であったが、『漢方と漢薬』の購読会員数は千名を超えた。
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