滞京、消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 23:28 UTC 版)
壬生村に着いた23日・翌24日の2日間にかけて、清河八郎は同志と共に図って浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷(学習院)へ提出。実は浪士組を幕府から切り離した組織にして急進的な尊皇活動に利用してしまおうというものだった。28日から30日にかけて各隊の御所拝観が行われる予定だったらしいが、29日に新徳寺で清河八郎が即刻江戸へ帰還した上での攘夷を唱え、芹沢・近藤らが猛反対するという騒動になったため、実際に行われたかどうか定かではない。 3月3日、浪士組に帰還命令が出されるが2度延期され、13日に清河八郎らが率いる浪士組は京都を出立して江戸へ向かった。清河に反対した芹沢・近藤らは京都守護職を務めていた会津藩預かりとなってそのまま京都に残り、「壬生浪士組」を名乗る(後の新選組)。 浪士組が江戸へ帰還した後の4月13日、清河八郎は幕臣の佐々木只三郎・窪田泉太郎ほか4名によって麻布一ノ橋で斬殺され、清河の同志達も次々と捕縛されたため、浪士組は組織目的を失う。幕府は浪士組を新たに「新徴組」と名付けて江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。京都守護職会津藩預かりとなっていた「壬生浪士組」は、八月十八日の政変後に「新選組」の名を賜り、名実ともに浪士組は消滅することとなった。
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