滕里野合倶録毘伽可汗は存在したか?とは? わかりやすく解説

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滕里野合倶録毘伽可汗は存在したか?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 03:09 UTC 版)

滕里野合倶録毘伽可汗」の記事における「滕里野合倶録毘伽可汗は存在したか?」の解説

今日多く資料見れば回鶻第7代可汗懐信可汗で、第8代可汗保義可汗となっている。しかし、中国史書である『新唐書』には「滕里野合倶録毘伽可汗」の名があり、それは懐信可汗保義可汗の間に位置する。つまり、第8代保義可汗ではなく滕里野合倶録毘伽可汗ということになるが、これについて否定的な研究者が多い。なぜなら、史書において懐信可汗死後の継承と、滕里野合倶録毘伽可汗存在曖昧になっているためである。以下は両唐書『旧唐書』『新唐書』)の抜粋。 まず、『旧唐書』本紀第十四(順宗憲宗上)に「元和三年五月丙午、正衙冊九姓迴紇可汗為愛登里羅汨没蜜施合毘伽保義可汗」とあり、唐による保義可汗冊立元和三年808年)であることがわかる。一方『旧唐書』列伝第一四十五(迴紇)では、「貞元十一六月庚寅、冊拝迴紇滕里羅羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗元和四年、藹徳曷里禄没弭施合蜜毘伽可汗遣使改為迴鶻、義取迴旋軽捷如鶻也」とあり、懐信可汗冊立貞元十一年(795年)であるが、懐信可汗没年を記さず、いきなり元和四年(809年)に飛ぶ。元和四年(809年)はすでに保義可汗即位している年なので、ここにでてくる「藹徳曷里禄没弭施合蜜毘伽可汗」という見知らぬ可汗名も保義可汗ということがわかる。保義可汗長慶元年821年)に死去したここまで状況だと 7.懐信可汗在位795年 - ???年) 8.保義可汗在位808年 - 821年) となる。 次に『新唐書』列伝第一四十二上回鶻上)に「永貞元年805年)、(懐信)可汗死、詔鴻臚少卿孫杲臨弔、冊所嗣為滕里野合倶録毘伽可汗元和三年808年)、来告咸安公主喪。主歴四可汗、居回鶻二十一歳。無幾、可汗亦死、憲宗使宗正少卿李孝誠冊拝愛登里羅汨没蜜施合毘伽保義可汗」とあり、永貞元年805年)に懐信可汗死去し滕里野合倶録毘伽可汗が立つが、彼も元和三年808年)に死去したことが記されている。保義可汗元和三年808年)に即位することは両唐書とも共通している。 ここで 7.懐信可汗在位795年 - 805年) 8.滕里野合倶録毘伽可汗在位805年 - 808年) 9.保義可汗在位808年 - 821年) となり、滕里野合倶録毘伽可汗第8代で、保義可汗第9代となる。 これについて、田坂興道小野川秀美懐信可汗滕里野合倶録毘伽可汗保義可汗としたが、山田信夫第7代懐信可汗第8代保義可汗の間に可汗存在せず懐信可汗元和3年808年)まで生きており、滕里野合倶録毘伽可汗というのは懐信可汗同一人物であるとした。

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