滕里野合倶録毘伽可汗は存在したか?
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「滕里野合倶録毘伽可汗」の記事における「滕里野合倶録毘伽可汗は存在したか?」の解説
今日、多くの資料を見れば、回鶻の第7代可汗は懐信可汗で、第8代可汗は保義可汗となっている。しかし、中国の史書である『新唐書』には「滕里野合倶録毘伽可汗」の名があり、それは懐信可汗と保義可汗の間に位置する。つまり、第8代は保義可汗ではなく滕里野合倶録毘伽可汗ということになるが、これについて否定的な研究者が多い。なぜなら、史書において懐信可汗死後の継承と、滕里野合倶録毘伽可汗の存在が曖昧になっているためである。以下は両唐書(『旧唐書』と『新唐書』)の抜粋。 まず、『旧唐書』本紀第十四(順宗・憲宗上)に「元和三年五月丙午、正衙冊九姓迴紇可汗為愛登里羅汨没蜜施合毘伽保義可汗」とあり、唐による保義可汗の冊立が元和三年(808年)であることがわかる。一方『旧唐書』列伝第一百四十五(迴紇)では、「貞元十一年六月庚寅、冊拝迴紇滕里羅羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗。元和四年、藹徳曷里禄没弭施合蜜毘伽可汗遣使改為迴鶻、義取迴旋軽捷如鶻也」とあり、懐信可汗の冊立が貞元十一年(795年)であるが、懐信可汗の没年を記さず、いきなり元和四年(809年)に飛ぶ。元和四年(809年)はすでに保義可汗が即位している年なので、ここにでてくる「藹徳曷里禄没弭施合蜜毘伽可汗」という見知らぬ可汗名も保義可汗だということがわかる。保義可汗は長慶元年(821年)に死去した。 ここまでの状況だと 7.懐信可汗(在位:795年 - ???年) 8.保義可汗(在位:808年 - 821年) となる。 次に、『新唐書』列伝第一百四十二上(回鶻上)に「永貞元年(805年)、(懐信)可汗死、詔鴻臚少卿孫杲臨弔、冊所嗣為滕里野合倶録毘伽可汗。元和三年(808年)、来告咸安公主喪。主歴四可汗、居回鶻凡二十一歳。無幾、可汗亦死、憲宗使宗正少卿李孝誠冊拝愛登里羅汨没蜜施合毘伽保義可汗」とあり、永貞元年(805年)に懐信可汗が死去し、滕里野合倶録毘伽可汗が立つが、彼も元和三年(808年)に死去したことが記されている。保義可汗が元和三年(808年)に即位することは両唐書とも共通している。 ここで 7.懐信可汗(在位:795年 - 805年) 8.滕里野合倶録毘伽可汗(在位:805年 - 808年) 9.保義可汗(在位:808年 - 821年) となり、滕里野合倶録毘伽可汗が第8代で、保義可汗は第9代となる。 これについて、田坂興道や小野川秀美は懐信可汗→滕里野合倶録毘伽可汗→保義可汗としたが、山田信夫は第7代懐信可汗と第8代保義可汗の間に可汗は存在せず、懐信可汗は元和3年(808年)まで生きており、滕里野合倶録毘伽可汗というのは懐信可汗と同一人物であるとした。
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