湊城の小田出羽太郞とは? わかりやすく解説

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湊城の小田出羽太郞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 14:45 UTC 版)

風間小太郎」の記事における「湊城の小田出羽太郞」の解説

市村高男は、常陸小田一族真家氏の古文書小宅雄二郎家文書)や宍戸文書にその名のみえる「小田出羽太郞」(「小田太郞」「湊殿」)は、小田氏一族で、受領出羽守鎌倉府古河府在国奉公衆として仕え那珂湊拠点としていた(その後堪忍の身となった)ことから、小田風間出羽守の子孫、と推定している。 享徳の乱以前とみられる小田出羽太郞殿あて足利成氏書状から、小田出羽太郞は、佐竹氏領地ありながら、成氏に仕えていた鎌倉府在国奉公衆だったとみられる享徳4年1455年)に真壁郡小栗城行われた合戦負傷しその後、「湊城」を攻め落とされて、その際一門数名戦死している。 その後も、成氏に仕え享徳の乱勃発以降文正期(1466-1467年)以前に、成氏から(古河への)参上合戦への参加要請されている。 この頃、成氏が「小田太郞」に宛てた書状に、「其方堪忍聞召候(そちらで堪忍の身となっていることを聞き及びました)」とあることから、「小田出羽太郞」が湊城没落して堪忍の身となり、「小田太郞」と呼ばれるようになった、と解釈され文書残されていた、同族宍戸氏笠間市)かその支族真家氏(石岡市真家)の下に身を寄せていた、と推測されている。 推定応仁2年1468年)頃の、(成氏の奉行人とみられる上総介義継の「湊殿」あて書状では、那須越後守方への出陣について戦況報告され上で脚気患っていることを心配されており、この頃高年さしかかっていた、と推測されている。 推定文明後半1480年代半ば)の佐竹義治の「湊殿」あて書状では、佐竹氏の陣(山入義藤との対陣)の状況小田方(小田成治)へ伝えるよう要請されており、この頃まで、古河府奉公衆として、また小田氏一族として、佐竹氏との取次になっていたとみられている。

※この「湊城の小田出羽太郞」の解説は、「風間小太郎」の解説の一部です。
「湊城の小田出羽太郞」を含む「風間小太郎」の記事については、「風間小太郎」の概要を参照ください。

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