湊城の小田出羽太郞
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市村高男は、常陸小田一族の真家氏の古文書(小宅雄二郎家文書)や宍戸文書にその名のみえる「小田出羽太郞」(「小田湊太郞」「湊殿」)は、小田氏の一族で、受領は出羽守、鎌倉府・古河府に在国奉公衆として仕え、那珂湊を拠点としていた(その後、堪忍の身となった)ことから、小田(風間)出羽守の子孫、と推定している。 享徳の乱以前とみられる小田出羽太郞殿あて足利成氏書状から、小田出羽太郞は、佐竹氏の領地にありながら、成氏に仕えていた鎌倉府の在国奉公衆だったとみられる。 享徳4年(1455年)に真壁郡の小栗城で行われた合戦で負傷し、その後、「湊城」を攻め落とされて、その際に一門の数名が戦死している。 その後も、成氏に仕え、享徳の乱勃発以降、文正期(1466-1467年)以前に、成氏から(古河への)参上、合戦への参加を要請されている。 この頃、成氏が「小田湊太郞」に宛てた書状に、「其方江堪忍由聞召候(そちらで堪忍の身となっていることを聞き及びました)」とあることから、「小田出羽太郞」が湊城を没落して堪忍の身となり、「小田湊太郞」と呼ばれるようになった、と解釈され、文書が残されていた、同族の宍戸氏(笠間市)かその支族・真家氏(石岡市真家)の下に身を寄せていた、と推測されている。 推定応仁2年(1468年)頃の、(成氏の奉行人とみられる)上総介義継の「湊殿」あて書状では、那須越後守方への出陣について戦況を報告された上で、脚気を患っていることを心配されており、この頃、高年にさしかかっていた、と推測されている。 推定文明後半(1480年代半ば)の佐竹義治の「湊殿」あて書状では、佐竹氏の陣(山入義藤との対陣)の状況を小田方(小田成治)へ伝えるよう要請されており、この頃まで、古河府の奉公衆として、また小田氏の一族として、佐竹氏との取次役になっていたとみられている。
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