湊合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:55 UTC 版)
天正15年(1587年)、父・愛季が病死したため、わずか12歳で跡を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄で12歳年長の安東通季(豊島通季)が「上国湊安東氏の復興」を掲げて反乱を起こした(湊合戦)。通季は日本海沿岸の海港の確保を願う内陸部の戸沢氏や小野寺氏、北奥の南部氏らの諸勢力とも通じていた。 実季は天正17年(1589年)、機先を制して出陣したが逆に撃退され、自身が檜山城に籠城するなど苦戦を重ねてようやく鎮圧した。通季らの軍勢は実季ら籠城側の十数倍におよび、籠城側は銃を300挺しか持たなかったが、5ヶ月以上も檜山城を守り抜いたといわれる。このときの実季の主力は檜山郡(後の山本郡)に基盤をもつ檜山衆であり、加えて阿仁川流域地方の嘉成氏や米代川中流域の浅利氏一族などの比内衆、また湊から檜山に移った竹ヶ鼻伊予など二十数名の湊衆が与同したといわれる。 この合戦は、北出羽内陸部の平鹿郡、比内郡方面への進出をはかる南部信直やその南部一族から津軽地方の独立をはかる大浦為信との抗争を巻き込んで、北奥羽における政治的激動の震源となった。実季は平鹿郡・雄勝郡地方を本拠とする小野寺義道と戦うが、その隙を狙って東方より侵入した南部信直とも激しく戦っている。 天正17年7月、由利郡の赤尾津氏や津軽の大浦為信との提携をはかることで、戸沢氏や南部氏と結んだ通季を破ることに成功した。 天正18年(1590年)、比内大館を南部氏から奪回した。これには大浦為信の助力があり、浅利頼平は為信の斡旋で比内の地に戻った。
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