渡仏・帰化
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渡仏のきっかけは、講演のためにベルリンを訪れていたアンドレ・ジッドとの出会いであった。彼の勧めに従って、1932年に渡仏。職を転々としながらフランス語を学び、民族学の学位を取得した。1934年7月、中世史専門の歴史学者フェルディナン・ロット(フランス語版)の娘イレーヌ・ロットと結婚し、ポール・リヴェ(フランス語版)に紹介された。リヴェは、人類学者のリュシアン・レヴィ=ブリュール、マルセル・モースとともに1925年にパリ大学の民族学研究所(フランス語版)を開設した民族学者で、物理学者ポール・ランジュヴァン、哲学者アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)ら左派の知識人とともに、1934年に結成された反ファシズム知識人監視委員会 (CVIA) のリーダーであった。 1936年9月5日にフランスに帰化。1937年にソルボンヌ大学でドイツ語の学位を取得。同年、リヴェが設立した人類博物館の北極文明部門からの依頼で、エストニアやフィンランドに派遣された。1939年1月、人類博物館の北極民族部門の主任に就任した。同年、国立東洋言語学校(現国立東洋言語文化学院)で日本語の学位を取得した。
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