渋川氏の世襲とは? わかりやすく解説

渋川氏の世襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 05:12 UTC 版)

九州探題」の記事における「渋川氏の世襲」の解説

康暦元年/天授5年1379年)の康暦の政変で了俊を支援した頼之が失脚し九州で独自の勢力持っていた了俊は応永2年1395年)に解任され後任には頼之の政敵であった斯波義将女婿渋川満頼義行の子)が就任し肥前綾部城九州探題府兼肥前守護所として拠点している。以後渋川氏代々世襲する。 しかし少弐氏との戦いで渋川氏衰退中国地方大内氏後援なしに存続できなくなるまでになった。そして渋川義長少弐氏通じたため、天文3年1534年)に大内氏討ち取られ以後九州探題衰微決定的となり、最終的に天文24年最後探題であった筑前姪浜大内氏によって接収されて、事実上その役目終えた戦国時代にも形式的な幕府職として存在し渋川氏滅亡後には大友宗麟らが任命された。江戸時代には同様の役割を担う西国郡代設置された。

※この「渋川氏の世襲」の解説は、「九州探題」の解説の一部です。
「渋川氏の世襲」を含む「九州探題」の記事については、「九州探題」の概要を参照ください。

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