渋川氏の世襲
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康暦元年/天授5年(1379年)の康暦の政変で了俊を支援した頼之が失脚し、九州で独自の勢力を持っていた了俊は応永2年(1395年)に解任され、後任には頼之の政敵であった斯波義将の女婿・渋川満頼(義行の子)が就任し、肥前の綾部城を九州探題府兼肥前守護所として拠点している。以後は渋川氏代々が世襲する。 しかし少弐氏との戦いで渋川氏は衰退、中国地方の大内氏の後援なしに存続できなくなるまでになった。そして渋川義長が少弐氏に通じたため、天文3年(1534年)に大内氏に討ち取られ、以後、九州探題の衰微は決定的となり、最終的に天文24年に最後の探題領であった筑前姪浜が大内氏によって接収されて、事実上その役目を終えた。 戦国時代にも形式的な幕府の職として存在し、渋川氏の滅亡後には大友宗麟らが任命された。江戸時代には同様の役割を担う西国郡代が設置された。
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