清右衛門による買米政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 09:04 UTC 版)
「安倍清右衛門」の記事における「清右衛門による買米政策」の解説
仙台藩はもともと財政が困窮していたが、宝暦の飢饉や天明の飢饉の影響、明和4年(1767年)の関東諸川国役普請への手伝いを課せられたことなどもあって、明和7年(1770年)時点で60万8600両余の借金と、2万4200石余の借米があった。その対応として、藩は天明元年3月から、専売制度の実施や領内限通用貨幣の発行といった財政再建策を推し進めた。 仙台藩は寛永期ごろより買米という政策を行なっていた。買米政策は、領内で収穫された米をまず年貢として収納し、残りの米を自家用米を除いて全て藩が買い上げて、都市の市場で売却するというものである。しかし、宝暦の飢饉によって買米資金の準備が困難になり、宝暦7年(1757年)には前金による買米が中止となった。その後は大坂商人からの借金で現金買をしたが、資金のやりくりがうまくいかず失敗に終わった。また、盛岡藩など他領から江戸に入る米が多くなったことで、米価は低迷し、それもまた買米制を行き詰まらせた。そのような時期に清右衛門は自らの手腕で買米を推進しようとした。しかし、買米は在方米商人による年貢余剰米の相対買ではなく、公金による買い上げであったから、販売する農民の側には売却金の決定権は無かった。買米制が再発足したのは翌天明2年(1782年)からだった。手先の商人を使って領外に米が出ていかないよう、郡村留を実施し、自分で拠出した3000両と藩の御納戸金をあわせた14000両を運用して、強制的に米を買い上げた。そうして買い上げた米を江戸に送って利益を上げようとした。 現金買で買米仕法を実施し、買い集めた米を江戸へ回送して、販売をはじめた天明3年、大凶作にもとづく飢饉が発生した。国元の米が「不自由」(流通不足)になってしまい、天明3年の端境期には米価が急騰し、仙台城下も米不足に陥った。 清右衛門は、配下の商人や在郷米商人である志田郡長瀬の利惣右衛門などを使って米の現金買いをしたが、代金の支払いは滞り、民衆はこれを御買米ではなく「安倍米」と呼び、蛇蝎のごとしと反発した。
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