津金胤臣との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 15:57 UTC 版)
胤臣は民吉らが瀬戸の陶工であったことを知り、かねて入手していた清国の『陶説』に書かれていた染付磁器(南京石焼)の製法を教えるとともに80両の資金を与え、熱田新田の古い堤防を利用して窯を築くなどして試作させた。瀬戸以外に窯場ができることを知った瀬戸村の反発は凄まじく、民吉の親類で瀬戸の庄屋でもあった四代 加藤唐左衛門は藩への請願を行い、最終的に窯を瀬戸に移して民吉らが試作を続けることになる。「新製焼」として尾張藩の御用も受けたが、有田などの磁器の品質に届かぬことから九州に人を送って学ばせることが考えられる中、法輪寺10世・学道祖英から幕府の直轄地である天草にも磁器の窯があること、また天草の東向寺15世・上藍天中が菱野村(現在の瀬戸市菱野町)出身であることが伝えられ、天中を頼って民吉を送り出すことになった。 祖英から天中への手紙を携えて民吉が瀬戸を出立したのは文化元年(1804年)2月22日で、香積院の僧・元門が途中まで同道し、約1か月の旅程を経て3月末には天草に入った。
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