治水・流路変更の歴史とは? わかりやすく解説

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治水・流路変更の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 03:21 UTC 版)

大和川」の記事における「治水・流路変更の歴史」の解説

かつては生駒山系を抜けて現在の柏原市付近石川合流すると、その流れ乗るように北へ流れ河内平野大きな湖(草香江(くさかえ)、または河内湖)をつくって古い時代淀川合わせ上町台地の北で海へと出る流路為していた。河内湖次第土砂により埋まり河内平野へと変わっていったが、基本的にはこの一帯上町台地さえぎられた低い湿地帯であり、江戸時代までは大和川分流多くの池を残していた。 江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川久宝寺川ともいう、本流)・楠根川玉串川吉田川菱江川に分流)など幾筋にも分かれ吉田川など一部寝屋川注ぎ込む深野池大東市周辺)・新開池東大阪市鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいた。これらの池の長瀬川本流現在の大阪市鶴見区放出周辺合流し、さらに淀川支流古川同じく河内平野流れ平野川次々合流しながら上町台地の北(現在の天満橋辺り)でやっと淀川大川本流合流していた。淀川はそこからまた安治川木津川など多くの川に分かれデルタ地帯形成しながら海へ流れていた。 これら大和川支流土砂堆積した天井川で、たびたび河内平野氾濫被害にあった河内平野洪水防止農業開発目的として流路西へ付け替える構想古く奈良時代以前からあり、治水工事歴史古墳時代遡る

※この「治水・流路変更の歴史」の解説は、「大和川」の解説の一部です。
「治水・流路変更の歴史」を含む「大和川」の記事については、「大和川」の概要を参照ください。

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