河西に割拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/11 17:48 UTC 版)
1931年(民国20年)8月、青海省政府主席となっていた馬麒が病没したと聞き、馬歩青は密かに青海に帰還した。後任の主席となった叔父・馬麟から、馬歩青は暫編騎兵1個師の統率を委ねられている。翌年、馬歩青は河西走廊東段を勢力範囲とすることになり、新編騎兵第2師師長(1934年6月、騎兵第5師に改称)に任命された。1936年(民国25年)には、馬歩青は国民政府から陸軍中将銜を授与されている。 同年10月、馬歩青は河西走廊の黄河沿いを中心に、長征中の紅軍を迎撃しようとした。しかし、紅軍の渡河を結局阻めなかった。その間の戦闘で紅軍にも一定の打撃を与えたものの、馬歩青も参謀長・馬廷祥を戦死させてしまうなどの大損害を被ってしまう。 1937年(民国26年)9月、馬歩青は陸軍騎兵第5軍軍長に昇進し、さらに甘新公路督弁公署督弁も兼任した。馬歩青は、官民を動員して甘新公路の整備に尽力し、新疆経由でのソビエト連邦からの支援物資の輸送改善に貢献している。また、河西に様々な社会インフラの整備を進め、青雲中学などの教育機関も設立した。ただし、これらの内政的貢献の一方で、馬歩青は支配地域民衆からの収奪が激しく、私利を貪る傾向も強かったとされる。
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