母テスコパール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 17:58 UTC 版)
1976年4月22日、ムツミパールの6番仔である牝馬が誕生する、テスコパールと命名された。直後に関係の深い2つの厩舎から管理の申し出を受けるなど、吉兵衛の期待とともに周りの評価も高かった。結局、美浦トレーニングセンター所属の加藤修甫調教師による管理が約束され、競走馬としてデビューする予定となった。ところが、2歳の春、激しい下痢に襲われて診療所に入所する。程度がひどく、治療されてもしばらく回復の兆しは見られなかった。次第に体は痩せ、顔周辺にたかるハエの大群を追い払うことも、肛門を閉じることもできなくなるほど衰弱する。 そんな状況から、獣医師は、助かる見込みがないと診断していた。しかしそれを聞いた吉兵衛は、獣医師の反対を他所にテスコパールを牧場に連れ戻すことを決意。吉兵衛の息子である中村幸蔵は、診療所に赴くことすら拒否していたが、代わりに近所の人を巻き込んで、テスコパールを奪還する。テスコパールは、入所前の同じ馬房に戻ってきた。それから吉兵衛は「どうせダメなもんなら、うまいものを食わせて死なせてやりたい」と考えるようになり、診療所で制限された水やえさを好きなだけテスコパールに与え始めた。するとテスコパールの体調が回復。3歳秋には下痢も解消し、他の馬と変わりない生活を送ることができた。 病を克服したテスコパールは、競走馬としてのデビューを諦めて、繁殖牝馬となる。1981年3月18日に初仔となる父ゼダーンの牝馬を出産した。それから、毎年のように生産を続けていた。1986年には、かつて勧められたシーホークと交配、それから1年後の1987年4月10日、高齢を理由に退いた吉兵衛の跡を継ぐ幸蔵の下、7番仔である黒鹿毛の牡馬(後のアイネスフウジン)を産む。
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