殿さまに直訴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 03:07 UTC 版)
「大久保忠兼 (旗本)」の記事における「殿さまに直訴」の解説
「御免切願通リ訳合連印之事」という古文書がある。元禄9年(1696年)1月に大久保玄蕃知行所の方ノ上村の3名(上組庄屋・長左衛門、下組庄屋・助兵衛、下組組頭・平右衛門)が、12年前に殿様(大久保忠兼)に直訴し処罰をされた3名の処罰を解いてほしい旨の直訴である。3年前より押切村(庵原郡にある大久保家の知行地)の役人に減免をお願いしているが叶わない。なにぶん叶えてくれ。との内容である。 下記は減免願いを直訴する12年前の貞享2年(1685年)の出来事である。元禄9年(1696年)に訴状を殿様に直訴した者と名前が同じであるが別人である。「御免切願通リ訳合連印之事」に経緯が記されている。 登場人物 大久保忠兼=殿様 長左衛門=上組の庄屋 助兵衛=下組の庄屋 平右衛門=下組の組頭 貞享2年(1685年)、村の3人は殿様に年貢を下げて貰うよう直訴するため江戸表へ行き、糀町に宿をとり、永田馬場の殿様の御屋敷御門前に3日出待ちしていた。 明日、殿様が出かけるのを知り、宿に帰って、願書を確かめ、翌朝六つ半時(7時)に門の前に詰めて待っていた。殿様が出かける際に、3人は手分けで、長左衛門は先に立ち近習を押し除け、助兵衛は殿様の乗っている篭の戸を引き開け、平右衛門は直訴文を篭の中に差し出した。 3人は下にひれ伏し、殿様は篭の中にて願書を確認した。殿様は「願書の通り叶えてやろう」と厳しく伝えた。「帰ってくるまで、控えていよ」と3人は言われ、そのとき3人の処罰の話は無かった。 殿様の帰りを待っていたところ、九つ半時(13時)に殿様が、屋敷に帰ってきた、評定の上、屋敷に呼び込み、御役所へ届け出られ、3人が申しつけられたのは「大望の願い申し出であり、殊の外おしかり遊ばれ、とが(罪)の儀は、追って申しつけるので、宿で待て」というので、宿にて呼び出しを待ち、4日後呼び出され、国元に帰ることを許された。 処罰は、村方の郷蔵へ百日の獄舎。百日目に村を追放。長左衛門、平右衛門は関方村に、助兵衛は越後嶋村に罷越。そこで七年居住したら、八年目は許してやる。という内容だった。 年貢率は七つ二分五厘(72.5%)の所を、六つ二分五厘(62.5%)にしてもらった。
※この「殿さまに直訴」の解説は、「大久保忠兼 (旗本)」の解説の一部です。
「殿さまに直訴」を含む「大久保忠兼 (旗本)」の記事については、「大久保忠兼 (旗本)」の概要を参照ください。
- 殿さまに直訴のページへのリンク