武者嶽の戦いとは? わかりやすく解説

武者嶽の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/27 07:55 UTC 版)

寺山城」の記事における「武者嶽の戦い」の解説

寺山観音寺縁起には、寺山城がある武者嶽について、次のような伝承残っている。 “ 白河院七十二代永保辛酉年川城主堀江左衛門尉源頼方公御時当山エ陣取リ御引コモリナサレ候所、那須佐竹両分ニテセメノボリ候エ共、寺ヨリ西二山アリ、此山二身方多ク武者相見エ候故、両勢コレヲヲソレ引退テ申候ヨシ、是観音ケンソク二十八部衆加勢ナサレ候、誠二観音智力御方便也、此山ヲ今ニ至テ武者嶽ト名(ヅ)ケ申候事。 ” 白河天皇時代に、当地支配していた堀江頼方(塩谷惟純)が当地に陣を張り那須氏佐竹氏連合して攻めてきたが、武者嶽の立ち木多く軍勢見え、これを恐れた那須佐竹連合軍は兵を引き上げ、これを寺山観音加護とする内容記述であり、これを武者嶽の戦いと言うが、しかし、この伝自体架空のものである。まず、永保2年(1082年)は壬戌年であり、辛酉年は永保元年(1081年)である。また、この時代川崎城築城されていなければ堀江氏(源姓塩谷氏)の塩谷郡支配始まってなければ氏姓創始すらされていない。それは、攻めてきたとされる那須氏佐竹氏も同じで、まだ氏姓発祥すらしていない時代である。つまり、その時代には、絶対にありえないシチュエーションである。 しかし、この「永保二年の辛酉年」の記述については、「永治元年辛酉年(1141年)」の間違いであるとする説があり、これならば、堀江頼方の時代とも符合する。ただ、寺山観音寺縁起年代記述には誤り多く、この武者が嶽の戦い出来事白河院七十二代時の事とする一方で、頼方の父である堀江頼純討ち死にした出来事後伏見院九十二代時の事とするなど、明らかな時代錯誤があり、年代誤って伝わった可能性が高いとは言え、この説は、この点を大きな拠り所としており、そのほかに有力な根拠があるわけではない。それでも、当地古戦場である可能性充分あり、この伝承は無視することが出来ないものとなっている。

※この「武者嶽の戦い」の解説は、「寺山城」の解説の一部です。
「武者嶽の戦い」を含む「寺山城」の記事については、「寺山城」の概要を参照ください。

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