歌手を目指す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/17 01:02 UTC 版)
ワイネットはトレモント高等学校に進学し、バスケットボール選手として活躍した。卒業1ヶ月前、18歳の誕生日の数か月前、ユープル・バードと結婚した。彼は建設作業員であったが、仕事を継続させることができずに転々と引っ越した。ワイネットはウエイトレス、受付、バーテンダー、靴工場従業員などで働いた。1963年、アラバマ州バーミングハムにあるアメリカン・ビューティ・カレッジに進学し、美容師になるために学んだ。歌手として成功後もいつでも戻れるように美容師の資格を更新し続けた[要出典]。 最初の夫ユープルのもとを離れ、その後に3人目の娘を産んだ。この娘は脊髄膜炎を患っており、治療費を稼ぐために夜に歌うようになった。ユープルはカントリー歌手を志望する彼女を支援せず、ワイネットによると夫は「夢でも見てろ」と語った。数年後、彼女は歌っているところを写真に撮ってもらうために彼にコンサートに来てもらい、その写真には「夢でも見てろ」とサインした。1965年、アラバマ州ミッドフィールドで美容師をしていた頃、バーミングハムのWBRC-TV の『カントリー・ボーイ・エディ・ショウ』で歌い、これによりポーター・ワゴナーと共に演奏することになった。1966年、グウェン、ティナ、ジャッキーの娘3人を連れてバーミングハムからテネシー州ナッシュビルに転居し、レコード会社との契約を志した。数々のレコード会社に断られ続けた後、プロデューサーのビリー・シェリルのオーディションを受けることとなった。当初シェリルは彼女と契約することを躊躇していたが、『Apartment No. 9 』のためにどうしても歌手が必要だったために仕方なく契約した。シェリルはワイネットがこの曲を歌うのを聴いてとても感銘を受け、1966年、彼は彼女をエピック・レコードと契約させた
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