機動と進軍の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 09:50 UTC 版)
「スランカメンの戦い」の記事における「機動と進軍の開始」の解説
8月17日から18日にかけての夜、キョプリュリュ・ムスタファ・パシャは自軍の陣営を密かに引き払った。掩護のため、指揮下の騎兵を皇帝軍の陣地の前面に残すと、輜重部隊を含む軍の残りを率いてクルチェディン(英語版)を経由し、南から皇帝軍の右翼を迂回した。それから皇帝軍の西側にあり、ドナウ川に面する高地に新しい陣地を築き、すぐに防備を固め始める。後からトルコ騎兵も同じ道を辿り、友軍の右翼と合流した。これによって、皇帝軍は困難な状況に陥る。退路と補給路の両方が寸断されたのである。兵力において遥かに勝るオスマン軍はより高い場所で防備を固めていた上、優勢な艦隊をドナウ川に呼び寄せていた。8月18日の朝には、早くも至急の必要に応じてペーターヴァルダインから発送されていた食料がオスマン軍に奪われる。 今や辺境伯ルートヴィヒは、皇帝軍を包囲から解き放つべくすぐにオスマン軍の陣地を攻撃するよう迫られていた。しかし、そのためには配置を転換する必要があった。8月19日の昼までに、皇帝軍はオスマン軍に阻まれることもなく西方への旋回を完遂する。キョプリュリュ・ムスタファは皇帝軍が、防備を固めた自陣を襲撃する必要に迫られていたことを知っていたため、慌てて対応するつもりはなかったと見られている。15時頃、辺境伯の軍は準備を終えた。右翼にはスーシェ伯カール砲兵大将が、歩兵20個大隊を率いてドナウ川に接していた。その後ろの高地には、オスマン軍の陣地をその防衛施設ごと砲撃するべく、軍のほぼ全ての大砲が展開した。中央にはブランデンブルクの援軍、歩兵17個大隊と騎兵31個中隊を率いるハンス・アルブレヒト・フォン・バーフース中将がいた。左翼には85個中隊の騎兵集団と歩兵16個大隊を指揮するデューネヴァルト伯ヨハン・ハインリヒ(ドイツ語版)元帥が進出した。右翼の後方で唯一の予備を構成したのは、ホルシュタイン公ゲオルク・クリスティアン率いる騎兵部隊である。辺境伯の計画では、デューネヴァルト元帥指揮下の左翼が攻撃をしかけ、オスマン軍の右翼を打ち破ることになっていた。こうしてオスマン軍を陣地から追い出し、ドナウ川へと押しやるつもりだったのである。イェニチェリは圧迫された翼面に来援できないよう、中央と右翼の皇帝軍から攻撃を受け、拘束されることになっていた。
※この「機動と進軍の開始」の解説は、「スランカメンの戦い」の解説の一部です。
「機動と進軍の開始」を含む「スランカメンの戦い」の記事については、「スランカメンの戦い」の概要を参照ください。
- 機動と進軍の開始のページへのリンク