梅田乗り入れ計画の変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:50 UTC 版)
「京阪梅田線」の記事における「梅田乗り入れ計画の変更」の解説
城東線高架化工事開始に先立つ1928年(昭和3年)3月に、大阪市によって都島付近の路線計画を高速鉄道(地下鉄)建設予定線(現在の大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 谷町線)と交差するため見直す要請が出されたこともあり、天神橋駅から葉村町に至る路線と、蒲生信号所から沢上江(かすがえ)町4丁目(桜ノ宮駅付近)に至る路線の免許を申請し、工事区間を野江駅から蒲生信号所、沢上江、葉村町を経て角田町までと、天神橋駅から葉村町、角田町までに変更して工費圧縮を図ろうとした。この計画変更には、近畿日本鉄道(近鉄)の前身となる大阪電気軌道(大軌)が、奈良線額田駅から蒲生信号所までの路線を建設し、京阪線に乗り入れ桜ノ宮や天満橋へ向かう計画(四条畷線)を立てていたことも後押しとなった。
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