梅田乗り入れ発案と大阪市の要求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:50 UTC 版)
「京阪梅田線」の記事における「梅田乗り入れ発案と大阪市の要求」の解説
この京阪による淀川西岸線出願と前後して、鉄道省城東線の高架化工事と電化工事を同時に実施する計画が進められていた。 城東線は当時京阪本線と現在の京橋駅北方で交差しており、京阪はその関係で工事計画の具体的な内容を早い時期に知りうる立場にあり、その高架化工事計画では既設線と平行して用地を取得し、そこに高架を建設するという工法が採られていたため、工事完成後は旧線用地が不要となる予定であった。そこで、京阪は省に働きかけてその旧線用地の一部払い下げを要請、570万円という安価でこれを手に入れ、野江から分岐して京阪本線と計画中の新京阪線を梅田へ乗り入れさせることを計画するようになった。 しかし、当時市内交通の整備と連動して都市計画を進めていた大阪市が、地平線では都市計画の障害になるとして計画の見直しを要求し、1921年(大正10年)、大阪市長が鉄道省に京阪の市内部の路線を高架線もしくは地下線にするよう求めた。
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