桓武平氏の婿となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)
相模守在任中、忠常の乱の鎮圧に失敗して将軍を更迭されていた桓武平氏の嫡流筋である平直方は、「私は不肖の将軍であったが、それでも我が家はかの平将門を討ち滅ぼした平貞盛の嫡流である。それ故に何事も武芸第一と考えてきたが、国守殿ほどの弓の名人をこれまで見たことがない。ぜひとも我が娘の婿となって頂きたい」と、頼義の武勇に大いに感じ入り自らの娘を嫁がせ、さらに鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡した。頼義はこの直方の娘との間に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となり、郎党である坂東武者達は後の奥州での戦いで大きな力となった。頼義はこの相模守在任中に得た人や土地を基盤として河内源氏の東国への進出を図る事となる。 また、50歳を目の前にしてようやく受領となった頼義を尻目に、弟の頼清は安芸守を始めとして陸奥守や肥後守など諸国の受領を歴任し、着実に能吏としての道を歩んでいった。
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