栗原、柄倉付近の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 16:48 UTC 版)
閏4月19日に、新政府軍は鬼怒川渓谷の隘路口内部の小佐越を奪取するべく土佐、彦根藩兵が申し合わせた上で土佐藩3小隊、彦根藩2小隊が今市を出発して栗原に向かった。旧幕府軍は閏4月14日に田島を先発した第三大隊の一部が16日に小佐越に到達し、一部が柄倉を占領した。また、高徳は貫義隊と城原新九郎の寄合組朱雀隊が占領していた。旧幕府軍は19日に大桑の新政府軍を攻撃しようと1小隊を柄倉に、1小隊を栗原に進入させ、他の1小隊で大桑に向かおうと前進していたところ栗原付近で新政府軍と遭遇し戦闘が開始された。 戦闘は当初新政府軍が優勢で、しばらくすると大鳥軍2小隊は栗原から柄倉へと退却した。新政府軍は追撃して柄倉方面へ向かおうとしたが、突如ラッパ、鼓笛の音と共に鬼怒川対岸の高徳方面から砲撃を受けた。さらに正面の山上からは猟師隊の射撃を受けることとなった。猟師隊は大鳥軍が付近の猟師を組織して配備したものであり、装備は火縄銃であるものの射撃に熟練していた。新政府軍は対岸からの砲撃と山上からの銃撃に苦戦し栗原まで撤退した。旧幕府軍はこの機に乗じて高徳から鬼怒川を渡河して大桑に向かい、新政府軍の退路の遮断を企図した。 新政府軍は敵の前進に直ちに対応し、大桑保持の為に土佐、彦根藩各1隊を大桑に急行させた。大桑は既に旧幕府軍が侵入していたが、激戦の末に大桑を占領し敵を大桑村から追い出したものの、追撃を行う余力はなかった。一方撤退していた新政府軍本隊は、栗原から大桑に退却する最中に土佐藩四番隊を路傍に埋伏させて追撃を待った。旧幕府軍は栗原、大桑に駐屯していた兵を併せて追撃して来たが、待ち伏せしていた土佐藩四番隊の一斉射撃に驚き、隊形を整えてから戦闘に移行しようとしていた。この間に新政府軍は大桑に撤退し、旧幕府軍は伏兵に懲りて慎重に追撃した。友軍不利の通報は今市の新政府軍本営に届き、土佐藩は3小隊と砲隊が増援に向かい、彦根藩も1小隊を小百に出撃させた。これらの部隊は大桑に入り撤退していた友軍と合流した。旧幕府軍は徐々に前進して板穴川の線まで達したが、ここで新政府軍は増援の兵を展開して、土佐藩砲隊が放列を敷いて砲撃を開始した。さらに撤退していた友軍もこれに加わって猛烈な射撃を行ったため、旧幕府軍は南岸から北岸まで追い返され、新政府軍の砲撃も命中弾が増加したため退却を開始した。 この戦闘で新政府軍の被害は土佐藩兵が戦死1名、負傷者4名であり彦根藩兵の被害は無かった。一方旧幕府軍は戦死2名、負傷者11名の損害を出した。敗北した旧幕府軍は全ての部隊を小佐越に後退させ、新たに到着した第二大隊から1小隊を柄倉の守備に充てた。
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