林家小染 (4代目)とは? わかりやすく解説

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林家小染 (4代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/12 13:09 UTC 版)

4代目 林家 はやしや 小染 こそめ
本名 山田 やまだ のぼる
生年月日 1947年6月11日
没年月日 (1984-01-31) 1984年1月31日(36歳没)
出身地 日本大阪府大阪市阿倍野区
死没地 日本大阪府箕面市桜井付近の国道171号線にて(交通事故
師匠 3代目林家染丸
弟子 5代目林家小染
4代目林家染語楼(預かり)
出囃子 たぬき
活動期間 1965年 - 1984年
活動内容 上方落語
所属 吉本興業

4代目 林家 小染(はやしや こそめ、1947年6月11日 - 1984年1月31日)は、大阪府大阪市出身の落語家。本名∶山田 昇出囃子は『たぬき』。

来歴

死去前まで

大阪市阿倍野区に生まれ[1]、8歳で造幣局に務めていた父と死別[1]

中学3年生の時、3代目林家染丸に弟子入りを志願するが「とても食べてはいけん世界やから」と断られる[1]大阪市立天王寺第二商業高等学校に進学する。笑福亭鶴光とは同級であり、ともに演劇部に籍を置いていた[2]。鶴光とは二人だけの落語研究会も作り、演劇部の舞台の前に交代で一席演じていたという[2]。鶴光は著書で「好きな落語の話を存分に出来るのが楽しかった」「落語に興味をもったのは山田(引用者注:小染)に出会ってからの方が大きい。彼と落語論を交わすうちに自分の生き甲斐が落語一色になっていった。」と記している[2]。高校1年生の時に染丸の元へ自作の落語を持って再度弟子入りを申し込む[1]。染丸はその落語を聴き、「ちょっともおもろいことあらへんがな。けどまあな、熱意だけは うたげる」と折れ、1964年1月10日に正式に染丸へ入門して高校は中退した[1]。鶴光は自著にて「小染は落語家には学問はいらない、だから学校はすぐにでも辞められるという考えだった」と記している[2]。入門後、4代目林家小染を名乗る。小染は鶴光に染丸門下に来るよう誘ったが、鶴光は高校は出るべきだという考えと小染の弟弟子になるのが嫌だったことから応じなかった[2]。翌年春、京都花月で初高座[1]

1968年6月に師匠の染丸が膵臓ガンで病没。小染は、仕事で臨終に立ち会えなかった[3]。葬儀の夜に小染は弟弟子の2代目林家染二(4代目染丸)とともに「桂にも笑福亭にもなりとうない。二人でまた林家の名前を大きゅうしていこう。泣いてる場合やない!」と涙したという[3]

1972年、毎日放送の番組『ヤングおー!おー!』で結成された若手落語家ユニット「ザ・パンダ」(小染、月亭八方桂きん枝(4代目小文枝)桂文珍)の一員となる。その愛嬌ある個性により、多くのレギュラー番組に出演しお茶の間の人気を博した[4]

その後、タレント活動より落語活動に比重を置くようになり林家染丸一門がやらないような大ネタを下ろした。1979年9月1日、大阪毎日ホールで初の独演会を開催[4]。この独演会では6代目笑福亭松鶴から稽古を付けられた『らくだ』を演じ、松鶴を感涙させている(ただし中入りの対談では松鶴は公開でダメを出した)[4]。独演会はこのあと、1983年まで5回を数えた[4]。『らくだ』のほかにも、『堀川』『景清』『猿後家』『鍬潟』『禁酒関所』『三十石』などを十八番としていた。4代目染丸を継ぐべく将来を嘱望されており、第1回独演会のプログラムに松鶴は「この調子でたゆまず精進してくれれば四代目染丸襲名も近いうち夢でない」と記していた[4]

突然の死去

1984年1月28日、小染は大阪府枚方市の樟葉公民館で行われた「市民寄席」に出演していた。高座を務めた後、仲間の桂文福桂九雀らを連れ立って、大阪ミナミの割烹料理店で食事をする。1月29日午前2時30分頃、桂九雀と一緒に、箕面市の国道171号線沿いにある飲食店(お好み焼き店)に入店。入店時、店内は立て込んでいた。お店の女店主は「2時30分頃やったかな、九雀さんと一緒にえろう機嫌よく来ました。かなり酔ってましたね。お酒を冷やで1杯、ビール4~5本出しました。『小染さんや』言うて、お客さんは喜びおってな、お酒をついだりつがれたりで。ここには4時過ぎまでいましたかな、帰らはるのにタクシー呼んだけど、雪で来てくれませんのや。」と証言した。この日は未明から雪が降っており、タクシーは捕まらず、道路はアイスバーン状態になっていた。[要出典]

午前4時過ぎに、店内にいた別の客であるスナックのホステス2人が、「小染はん送りましょうか?」と言ったが、小染は「アンタらの車に乗るなら生命保険入ってからや」と冗談を言って、桂九雀と一緒に店を出る。店を出て九雀と別れた小染は、道路の向かいにあったうどん屋へ一人で入店する。そこで、酒とうどんを注文したが、うどんだけ食べて酒には手を付けなかった。午前4時20分頃、小染はうどん屋を出てタクシーを捕まえようとするが、タクシーが来なかったため、ちょうど付近に停車していたトラックに便乗した。小染の自宅はここから2~3キロの距離にあった。午前5時少し前に小染は元の場所に一人で戻ってきた(どのようにして戻ってきたかは不明)。戻ってきた理由は、うどん屋の勘定を払い忘れたからだという。勘定を支払った後で、再び路上で通過する車に向かって手を振り続けた小染に、1台の乗用車が停まったものの、後続車が雪で止まり切れずにこの乗用車に追突した。この2台の車の運転手同士が口論している最中、小染は「死んだらええんやろ、死んだるわ!」と叫びながら車道に飛び出した。そこへ走って来たのがトラックで、路面は急ブレーキをしてもきかないほどの凍っており、トラックは左前輪に小染をひっかけたまま、15メートルほど引きずった。[要出典]

午前5時に人身事故が発生した旨の110番通報があり、同5時3分に救急隊が現場に到着した。この時、道路は雪で真っ白になっていたという。路上には4トントラックが停車しており、その左前部には、降りしきる雪に顔を濡らして横たわる小染がいた。消防隊員は「もう頭部の下にはかなりの出血があって、「これはアカンな」と思いました。救急車の中では軽く眠っている状態でしたが、瞳孔はやや散大気味。舌を巻いて窒息しないように気管を確保し、酸素を与えたんです。すると、痛みが酷いのかとても1人では抑えられないほど暴れたんです。その時、羽織の下の物の胸のところに「小染」と染め抜いてある字が見えたんで、初めて小染さんとわかりビックリしたんですわ。担架に乗せる時も肥えているんで、重くて警官に手伝うてもらって3人がかりで乗せたんです。最初はお相撲さんかと思ったんです。」と述べている。事故を起こしたトラックの運転手の話では、停車していた軽トラックの陰から、車に手を振るようにフラリと飛び出して来たとのこと。その時、信号は前方3つ目まで青だったこともありスピードが出ており、15メートル前方まで引きずったと証言している。救急隊員は「私たちが到着した時も乗用車はいませんでした。関わり合いになるのを恐れていなくなったんですかね。ただ小染さんは、 かなり酔ってたんじゃないですか?救急車の中で、かなり酒の匂いがしましたから。」と証言した。[要出典]

小染は現場から3キロ離れた友紘会(ようこうかい)総合病院に担ぎ込まれる。この時、まだ小染には意識があった。手足を動かし「ワァー、ワァー」と声も出ていたと、病院関係者は証言している。しかし、その20分後には脈拍が40に低下。すぐに、頭部断面検査を行なった結果、脳推傷と外傷性硬膜下血腫が認められる。すぐに2時間に及ぶ大手術が行なわれ、ICUに運ばれる。執刀医は「脳死に近い状態です。微(かす)かに自発的に呼吸している状態で、呼吸器を外せばすぐ死に至ります。外科的な手術はすでに全て手を尽くしました。医学的に見て、一命をとりとめるのは絶望的でしょう。万が一の可能性で植物症に移行する程度です。奥さんにも全て話してあります。納得し覚悟されている様子でした」とのちに語った。[要出典]

その後、翌々日の31日に死去[5]。36歳だった。法名は「淨樂院釋染華信士」[6]。亡くなった当日の1月31日は、梅田花月で「もう酒はやめた」というコメディーに主役で出演する予定で、同年秋に4代目染丸襲名が決まっていた中での急逝だった[5]

小染の通夜には、不祥事で謹慎中だった桂きん枝が参列し、それを見た6代目笑福亭松鶴がきん枝に声をかけた[7]。しばらく経ってから松鶴は3代目桂小文枝の自宅にきん枝を伴って訪れ、きん枝の芸能活動復帰を促し、すでに「タイミングの問題」と考えていた小文枝もそれを許すこととなる[7]

2月7日の本葬では、染二が弔辞で「このたくさんの しきみが、四代目染丸襲名のお祝いの花であったら、どんなに嬉しかったことか」と無念の言葉を読んだ[5]。染二は小染の没後に書いた文章の中で、1983年の秋頃に小染から「ワイ、四十になったら染丸になろうと思てんねん」と打ち明けられたことを記し、襲名への意欲とともに「無茶はいまのうちにしておこうという気もあったようです。酒にのまれてしまうことも多くなりました。」と死因につながった事情を推察している[5][8]香川登枝緒も「東西ともテンポの速い落語家の多い中で、小染のような大阪弁でいう"まったり"した味を持っている落語家は少なかった。大器晩成型で五十、六十代が楽しみだったのに残念」と惜しんだ[5]

2009年にDVD+CDボックスが発売された。2010年の命日の1月31日には京橋花月で27回忌追善落語会を開催、ゆかりの噺家が多数出演した。『鍬潟』の映像を流した。

芸歴

芸風

小染の高座について、笑福亭鶴光は「若い時分から老成したような丁寧なゆっくりとした口調だった」と回想し、師匠の3代目染丸からは「みんな歳いったらゆっくりになるんやから、いまからそんなしゃべり方しとってどないすんねん!」と言われていたと記している[9]

弟弟子の2代目染二(4代目染丸)と一緒に軽口を演じたこともあった。

演目

弟子

廃業

  • 林家染久

人物

酒豪だが酒癖が悪く、楽屋で休息している大先輩で厳格であった人生幸朗に対して、酔っ払っていた小染は「オイ、オッサン、こんなとこで何寝てんねん」と足蹴りし、周囲を凍りつかせた[10]。また6代目笑福亭松鶴に対しても酔った勢いで罵倒したり、2代目桂春蝶2代目桂枝雀と3人で呑んだ時に揉めたこともあった[11]。ほかにも電柱に上ったり、自宅の押し入れで用を足したり[10]したこともあった。酒癖の悪さは本人も自覚しており、「ワシ、きっと酒で死ぬやろナ」と言ったこともあるという[12]。一方で「酒が入っていなければ、実に礼節をわきまえた芸人であった」と前田五郎は評している[12]

また、年がら年中同じ着物で風呂にも入らないという生活であった。風呂に入らないのをよく「風呂に入ると風邪を引く」と言って拒んでいた。酔った勢いで中央市場のトロ箱で一夜を過ごし、そこから楽屋入りすることも度々で「その時の臭さと言ったら…」と前田は評している[12]

好角家で、タニマチになったり「小染会」の名で懸賞金を出したりしていた[9]

共著書

関連書籍

主な番組

脚注

  1. ^ a b c d e f 戸田 2014, pp. 257–258.
  2. ^ a b c d e 笑福亭鶴光 2008, pp. 23–25.
  3. ^ a b 戸田 2014, p. 320.
  4. ^ a b c d e 戸田 2014, pp. 430–432.
  5. ^ a b c d e 戸田 2014, pp. 464–465.
  6. ^ 笑福亭鶴光 2008, p. 31.
  7. ^ a b 5代目桂文枝 2011, pp. 261–262.
  8. ^ 2代目林家染二の文章は『落語』第20号(1984年5月)からの引用。
  9. ^ a b 笑福亭鶴光 2008, p. 30.
  10. ^ a b 足立克己『いいたい放題 上方漫才史』東方出版、1994年、p.197
  11. ^ 新野新『上方タレント101人』有文社、1975年、pp.169 - 170
  12. ^ a b c 前田 1993, pp. 118–119.

参考文献

  • 諸芸懇話会・大阪芸能懇話会(編)『古今東西落語家事典平凡社、1989年
  • 5代目桂文枝『あんけら荘夜話(新装版)』(小佐田定雄)青蛙房、2011年11月。 
  • 笑福亭鶴光『つるこうでおま!』白夜書房、2008年7月。 
  • 戸田学『上方落語の戦後史』岩波書店、2014年7月。 
  • 前田五郎『芸能界み~んなホントのことでっせ!』日本文芸社、1993年。 
  • やまだりよこ 『上方落語家名鑑』出版文化社、2006年



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