東福寺城の築城と市街地の形成
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「清水町 (鹿児島市)」の記事における「東福寺城の築城と市街地の形成」の解説
現在の清水町の多賀山公園内にかつて存在していた東福寺城は平安時代の天喜年間に長谷場氏の居城として築城されたとされており、戦国時代には東福寺城の麓にある稲荷川の河口に港が築かれた。興国4年(1343年)頃には島津貞久が東福寺城を攻め落とし、貞久の四男である島津氏久が東福寺城に居城を移した。東福寺城は山城として構築されており、この頃には城の附近には町と言えるものは存在していなかったという。この頃から稲荷川の河口に築港された港が発展し、これが鹿児島港の興りとされている。 また、島津氏が東福寺城を居城とした時期と同じ頃に諏方神社(現在の南方神社)が現在の清水町の区域に遷座したとされる。江戸時代に薩摩藩が発刊した地誌である「三国名勝図会」は諏方神社について下記のように記述している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}正一位諏方大明神社 坂本村にあり、祭神二坐、其一坐 は、建御名方命、是を上社と稱し、一坐は事代主命、是を下社と稱し奉り、神體各鏡櫝を殊にす、上社を左位に崇め、下社を右位に崇め、左右これを合殿に安す、例祭毎年五月五日、是を五月祭と云、七月廿八日、此日大祭也、當社は、鹿見島の總廟にして、鹿兒島五社の第一也、… —三国名勝図会巻之三 元中4年(1387年)には島津元久が清水城(現在の稲荷町に所在)を築城し、清水城を基点に稲荷川流域や稲荷川河口から滑川付近に市街地が形成された。 江戸時代に薩摩藩が発刊した地誌である「三国名勝図会」によれば祇園社(現在の八坂神社)は詳細な勧請時期は不明であるが、天文5年(1536年)までには勧請されていたと考えられている。
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