東方正教徒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:17 UTC 版)
「エルサレム攻囲戦 (1099年)」の記事における「東方正教徒」の解説
エルサレム陥落後、まず聖墳墓教会にいた正教会はじめ東方教会各派(グルジア正教会、アルメニア正教会、コプト正教会、シリア正教会)の主教がすべて追放された。彼らの共存はムスリム支配者の下でも許されていただけに、東方教会から十字軍への反発は強く、聖十字架(「真の十字架」)などの聖遺物のありかを明らかにしないなどの抵抗を行った。しかし十字軍による正教徒への拷問の末、真の十字架は十字軍に奪われ、以後その管理下に置かれることになった。 陥落後のエルサレムで正教徒が殺戮されたことを述べている目撃者の証言というものは見当たらず、正教徒の書いた年代記(たとえばエデッサのマチュー、アンナ・コムネナ、シリアのミカエルなど)にも同様の記述はない。シリアの年代記は、十字軍による包囲前にキリスト教徒がエルサレムを追放された話が書かれている。 『ゲスタ・フランコルム』には、エルサレム陥落から2週間半後の8月9日水曜日の出来事が書かれている。ここでは、隠者ピエールが、ギリシャとラテンのすべての聖職者に対して、聖墳墓教会で感謝の行進を行おうと呼びかけたとある。1100年11月、シャルトルのフーシェがボードゥワンとともにエルサレムを訪れた際、ギリシャ正教会やシリア正教会双方の聖職者から歓待を受けたとある。
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