東善作とは? わかりやすく解説

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東善作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/03 17:43 UTC 版)

東 善作(あずま ぜんさく、1893年明治26年〉9月25日 - 1967年昭和42年〉10月11日)は石川県出身の飛行家。1930年にアメリカ西海岸から欧州を経て日本まで、三大陸横断飛行を敢行した。

生涯

生い立ち

石川県羽咋郡南大海村字中沼(かほく市中沼)で東長松・八重夫妻の二男として生まれる[1][注 1]。母の実家がある一ノ宮村へ移住。伯父・義学が住職を務める西教寺に預けられ、従兄の義圓と共に育った[3]。1908年(明治41年)春に羽咋高等小学校を卒業。同年8月、満14歳で一ノ宮村役場の給仕として働き始めたが、翌1909年に事業家を夢見て朝鮮半島の馬山浦新同洞へと渡る。そこで学問の必要性を感じた善作は2年ほどで日本に戻り、1912年(大正元年)京都中学校の4年に編入。翌年岡山県の関西中学校へ転校した[1]。この時の同窓生には後に第4代経団連会長を務める土光敏夫がいる[4]

善作は人力車夫をしながら苦学して卒業し、1916年(大正5年)5月に北陸毎日新聞の記者となる。ところが同月、金沢の野村練兵場で取材したアメリカ人飛行士アート・スミスの曲芸飛行=バーンストーミング英語版[注 2]に心を奪われ、入社したばかりの新聞社を辞職。飛行家を志すと、同年10月に横浜港からサンフランシスコ行きの船に乗った[注 3]。この時善作は満23歳。

在米期

飛行機乗りになるためアメリカへ来た善作だったが、1分あたり1ドル(2円)もかかる高額な飛行練習費など簡単に出せるものではなかった。さらに渡米翌年の1917年4月にはアメリカが第一次世界大戦に参戦、民間飛行学校はすべて閉鎖となってしまう。1918年5月、考えた末に善作はアメリカ陸軍航空部英語版(USAAS)[注 4]へ志願。軍で操縦を覚えることにした。大戦は同年11月に休戦。サンフランシスコのプレシディオ陸軍基地から抜擢されセントポールの飛行学校に送られていた善作は、1919年(大正8年)4月に飛行上等兵として除隊した[6]

およそ11ヶ月の軍隊生活を経験した善作は除隊後一年ほどカリフォルニア州北部で米の栽培に従事。そこで稼いだ資金でオークランドにあるデューランド飛行学校に入学する。同校を1920年(大正9年)内に卒業し、翌年7月にはカリフォルニア州南部のヴェニスにあるクーパー飛行学校でより高度な飛行訓練を積んだ。8月末の卒業飛行ではカーチス式複葉機に乗り15回連続宙返りや木の葉落としなどを披露し、その技量の高さに試験官一同が舌を巻いたという記録が残っている[7]

善作はこのクーパー飛行学校在籍中に10歳年上で日系二世の伊藤寿々と出会い、以後事実婚の関係を続けた[注 5]。1923年(大正12年)9月に関東大震災が起こった際には機体に「HELP JAPAN」と書き、ロサンゼルスの空から日本救済のためのビラを数十回にわたり配布した。そのビラ撒きの際に同乗したのも寿々である。やがて2人はロス郊外のパサデナに引っ越して「Red Wing」というチャプスイ(米国風中華料理)屋を開いた。店は主に寿々が取り仕切り、善作は昼に5分5ドルの遊覧飛行で稼いで夜はチャプスイ屋を手伝った。この店は地元の新聞で好意的に取り上げられ大いに繁盛している[注 6]

1926年(昭和元年)12月末、ロスの日本領事館にて東京で飛行学校を経営している相羽有と引き合わされた。善作は相羽を乗せハリウッド上空を一周する5ドルの遊覧飛行コースを飛んだ後、Red Wingで寿々を紹介している。翌1927年5月、チャールズ・リンドバーグが世界初の大西洋単独無着陸横断飛行に成功。大きな刺激を受けた善作は三大陸横断飛行を計画する。1930年(昭和5年)6月22日、「東京号」と名付けたトラベルエア4000型複葉機[注 7]でロサンゼルスを飛び立った。この前年、後藤正志が惜しくも越えられなかったロッキー山脈を高度12,000フィート(3658m)で越えて北米大陸を横断。ニューヨークから船でロンドンへ。東京号はパリ、ベルリン[注 8]、モスクワを経てシベリア、そして日本海を渡る。同年8月31日、東京の立川飛行場に無事到着した善作を待ち構えていた大観衆が歓迎した。善作の成功を知った関西中学校校長の山内佐太郎は大いに感激し「私がこれまで中学卒業証書を渡した者は千六百余名に達しているが、東君の如きはまことに日本男子中の男子である」と称えた。9月4日には帝国飛行協会元副会長・長岡外史に自邸での茶会に招かれ、航空局の児玉常雄大佐も同席。9月6日には同飛行協会より有功章を授与された。同月10日に立川飛行場を飛び立ち、大阪で一泊したのち11日午前に金沢の野村練兵場に到着[注 9]。ここには長く病床にあった父・長松も来ており、5万人の観衆と共に善作を出迎えた。この日は汽車で実家へ帰宅。親子3人水入らずで過ごしたという。母校の一ノ宮小学校では「東善作氏歓迎文集」をまとめて善作に贈り、善作はこれを非常に喜び生涯大切にした。

東京滞在中の善作は品川にあった相羽の邸宅に2ヶ月ほど滞在している[11]。東京号の機体は相羽が中島知久平に頼み、中島飛行機の太田工場で整備することになったが、善作から売りたいとの意向が出る。そこで相羽は宇垣一成陸軍大将に話を通し、陸軍航空本部において二千円での買取りが決まった[注 10]。翌1931年(昭和6年)1月9日、善作は日本郵船の龍田丸に乗り横浜から帰路に就いた。同月22日にサンフランシスコの港に着き、26日にロスの自宅へ帰った善作を多くの人々が歓迎し、また講演依頼も多数舞い込んだという[12]

帰国後

1934年(昭和9年)に20年近くに及んだアメリカ生活に終止符を打ち内妻の寿々と共に帰国。1937年(昭和12年)には満43歳で第20回衆議院議員総選挙に立候補するも落選した。善作の演説会場にはいつも多くの人が集まり、航空の話は大層人気を博したものの、投票にはまるで結びつかず惨敗であった[13]。衆院選後は新橋の飛行会館近くに事務所を構えて東商事という小さな会社を始め、飛行機関係の部品や工作機械などを販売した。その後、長野県傍陽村で珪石や硯石が採れる極小規模な鉱山を買っている。一方の寿々は麹町半蔵門の近くで伝書鳩やそれに必要な諸器具を販売する店を開いていた。

太平洋戦争も敗色濃厚となって来た1945年(昭和20年)4月13日、東京大空襲により善作の住んでいた一帯も焼野原となる。そのため家族を連れ長野県傍陽村に疎開。8月15日の玉音放送はこの地で聴いた。終戦の数年後、東京に戻って来た善作は英語を活かしてGHQ中央購買本部に出入り。米兵の好きな骨董品、特に焼き物に目を付ける。その仕入れと販売とで十分な利益を得た善作は新宿の近くに家を建てた[14]

1953年(昭和28年)5月、ロサンゼルス時代の同僚[注 11]がウラン採掘で成功したことを知る。その同僚より当時まだ日本にはなかったガイガーカウンターを4台入手し、自分も日本でウランを探すことを決意。各地を歩き回りウラン爺さんと呼ばれた[16]。1955年(昭和30年)3月に鳥取県小鴨村の旧小鴨鉱山でウラン鉱脈を発見[注 12]。ウラン鉱業株式会社[18]の設立に関わり、1957年(昭和32年)同社取締役に就任している。

1960年頃のこと。東京の三越で陶器展を見た善作は、同郷石川県出身の陶芸家・礒見忠司(1916年生)の作品を偶然見つけ手紙を送った。礒見は30年前の東善作氏歓迎文集に作文を寄せた19人の生徒のうちの一人。善作はその名を覚えており、以後親しい交流が続いた[注 13]。1964年2月に妻の寿々と死別。東雲飛行場でヘリコプターをチャーターし、東京上空にて散骨する。その3年後、1967年(昭和42年)10月11日に前立腺癌により満74歳で逝去[1]。善作の遺骨は寿々と共に石川県かほく市にある東家の墓に入り、一部は甥の高橋亘一の手で一ノ宮海岸に散骨された[20]。1973年(昭和48年)6月には出生地であるかほく市中沼にその事績を記した顕彰之碑が建立されている[21]

三大陸横断飛行ルート

1930年(昭和5年)の6月22日から8月31日まで、71日間かけて行われた。総行程はおよそ18,000キロ。

脚注

注釈

  1. ^ 父・長松は1861年の生まれ。善作の兄弟には兄の義長と妹がいた。兄の死後はその娘・良子を養子としている[2]
  2. ^ バーンストーミングは個人またはチームで技を披露する曲芸飛行。フライングサーカスとも呼ばれる。収入が安定しないため、飛行教官やガソリンスタンドの店員などの副業で生活を支える者も多かった。後に大西洋横断を成すリンドバーグの飛行家としてのスタートもこのバーンストーマ―であり、飛行中に翼の上を歩く芸などを披露したとされる。
  3. ^ 当時は横浜-サンフランシスコ間で16,17日の船旅。アメリカ到着時に移民局で一定の所持金を見せなければ入国できなかったが、手持ちがなかった善作は船内で知り合った人物に借りて入国を果たした[5]
  4. ^ この頃のアメリカ陸軍航空部の保有機は全55機。旧型機の寄せ集めでとても実戦で使えるしろものではなかった。そのため大戦中に2300機を超える数を主に飛行機先進国であるフランスから輸入している[5][6]
  5. ^ この頃寿々は横浜在住の夫と離婚訴訟中であり、離婚が成立したのが1926年。その後も長く事実婚状態だったが、寿々が亡くなる直前の1963年に籍を入れている[7]
  6. ^ 店名の由来は善作の飛行機の翼が赤かったことから。開店早々に地元紙のスターニュース社から記者が来て、なぜ飛行家が料理屋をするのかと質問した。善作のアメリカに恩返しがしたいとの返答に感激した記者が大きな記事を書いたため客が押し寄せ、多い日は一日350ドルも売り上げたという[7]
  7. ^ 発動機はライトホワールウインドJ5型空冷式星型200馬力。主翼全幅10.56m、自重720㎏、搭載量450㎏、最大速度217㎞/h。同乗席に燃料タンクを増設して航続時間を10時間に伸ばした[8]
  8. ^ 善作はベルリンで報知新聞社の吉原清治飛行士と出会う。ドイツで購入したユンカースA50型低翼単葉機によるベルリンー東京間の単独飛行を社で計画しており、8月20日にベルリンを出発。モスクワでは善作が吉原を出迎えており、吉原は同月30日に東京立川飛行場に到着した。その後このユンカース「報知」号は水上機に改装。翌1931年5月に北太平洋横断を目指し羽田を出発したが、10日後に気化器が凍結。新知島の西北海上に不時着して計画は失敗した。なお吉原は農林省の白鳳丸に救助されている[9]
  9. ^ 10日の午前10時半頃に東京を発ち、午後1時半頃に大阪着。この夜は中之島公会堂で開かれた講演会に出席した。翌11日午前9時に大阪を発つと、午前11時15分に金沢の練兵場に着陸している。この野村練兵場は善作がアート・スミスの曲芸飛行を見て飛行家を志した場所でもある[10]
  10. ^ 最初に陸軍航空本部を訪ねた際には、機体の状態も悪く軍用機として使い物にならないのでと断られている。その後ある知人の知恵を得て大将と直接話をしたところ、鶴の一声で買取りが決まった。
  11. ^ 20年前にロスで飛行教官をしていた時の同僚であり友人のジョー・プロッサー。善作はある月刊誌の記事で彼の成功を知り手紙を送った[15]
  12. ^ その後の専門家による現地調査によって岡山との県境である人形峠付近にウラン鉱床が確認された。1956年10月より原子燃料公社が本格的な探鉱を開始したが、品質及び規模が基準に満たず1960年5月末を最後に探鉱を断念している[17]
  13. ^ 作文を寄せたのは小学生に限らなかったようで、磯見は三大陸横断飛行の際に高校2年生。三越で作品を見つけた善作は手紙と共に現金書留を送り、3千円相当の作品を送ってもらえないかと依頼している[19]

出典

  1. ^ a b c 東 善作 - 羽咋の偉人”. 羽咋市歴史民俗資料館. 2024年5月26日閲覧。
  2. ^ 男児 1982, p. 261.
  3. ^ 鈴木明『ある日本男児とアメリカ:東善作、明治二十六年生れの挑戦』中央公論社、1982年11月、20-21頁。NDLJP:12258939/14 
  4. ^ 美術館ニュース (99)』(PDF)岡山県立美術館、2頁https://dl.ndl.go.jp/pid/10349464/1/12024年5月27日閲覧 
  5. ^ a b ヒコーキ 1980, p. 30.
  6. ^ a b ヒコーキ 1980, p. 33.
  7. ^ a b c ヒコーキ 1980, pp. 36–37.
  8. ^ 『汎交通』77 (3)、日本交通協会、1977年3月、32頁。NDLJP:2793259/18 
  9. ^ ヒコーキ 1980, p. 49.
  10. ^ ヒコーキ 1980, p. 54.
  11. ^ 平木国夫『日本ヒコーキ物語』 北陸信越篇、冬樹社、1980年8月、56頁。NDLJP:12064053/34 
  12. ^ ヒコーキ 1980, p. 57.
  13. ^ 伊藤良平『地球はさらにせまくなる:航空の昨日,今日,明日』フジ・インターナショナル・コンサルタント出版部、1966年、117頁。NDLJP:2511048/69 
  14. ^ 男児 1982, pp. 229–230.
  15. ^ 『リーダーズダイジェスト』14 (13)、日本リーダーズダイジェスト社、1959年12月、表紙裏頁。NDLJP:1763341/2 
  16. ^ 男児 1982, p. 12.
  17. ^ 日本学術振興会ウラン・トリウム鉱物研究委員会 編『ウラン:その資源と鉱物』ウラン - その資源と鉱物刊行会、1961年、511頁。NDLJP:2493611/539 
  18. ^ 『鉱業職員録』(昭和41年 上期版)資源新報社、1966年1月、E8頁。NDLJP:2531677/93 
  19. ^ ヒコーキ 1980, p. 55.
  20. ^ 男児 1982, p. 262.
  21. ^ ヒコーキ 1980, p. 59.
  22. ^ 『日本航空史 坤』航空協会、1936年、1129頁。NDLJP:1866570/616 

参考文献

  • 平木国夫『日本ヒコーキ物語』 北陸信越篇、冬樹社、1980年8月。 NCID BN0166131X 
  • 鈴木明『ある日本男児とアメリカ:東善作、明治二十六年生れの挑戦』中央公論社、1982年11月。 NCID BN00404683 



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