傍陽村
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そえひむら 傍陽村 |
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傍陽村道路元標(JA信州うえだ傍陽店前)
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廃止日 | 1958年10月1日 |
廃止理由 | 新設合併 長村、傍陽村、本原村 → 真田町 |
現在の自治体 | 上田市 |
廃止時点のデータ | |
国 | ![]() |
地方 | 中部地方(甲信越地方) |
都道府県 | 長野県 |
郡 | 小県郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 75.30 km2. |
総人口 | 4,607人 (国勢調査、1955年) |
隣接自治体 | 上田市、小県郡長村、埴科郡坂城町、屋代町、松代町、上高井郡保科村 |
傍陽村役場 | |
所在地 | 長野県小県郡傍陽村 |
座標 | 北緯36度27分28秒 東経138度16分59秒 / 北緯36.45767度 東経138.28303度座標: 北緯36度27分28秒 東経138度16分59秒 / 北緯36.45767度 東経138.28303度 |
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傍陽村(そえひむら)は、長野県小県郡にあった村。現在の上田市真田町傍陽にあたる。
概要
1878年(明治11年)の人口は741戸、3060人。公立小学校の金縄学校は実相院に置かれた。1881年(明治14年)の生徒数は男子224人、女子158人。三大陸横断飛行を成した飛行家の東善作が第二次大戦末に家族で疎開していたのがこの傍陽村であり、村内の小さな鉱山を所有していた[1]。
- 金縄山実相院 - 725年(神亀2年)行基によって開かれ、毘邪王討伐に派遣された坂上田村麻呂も当地の馬頭観音に祈願したと伝わる。
- 誉田足玉神社 - 創建は857年(天安元年)とされる。正八幡宮と呼ばれていたが1864年(元治元年)誉田足玉神社に改称した。祭神は誉田別命、息長足姫命、玉依姫命の三柱。本殿は1828年(文政11年)の建築。
- 洗馬城跡 - 名勝・天然記念物に指定されている。松代道と洗馬道が交わる場所であり、戦国期には根小屋城と共に重要な城であったと考えられる。
- 信陽鉱山跡 - 様々な鉱石が採れる場所で、1937年(昭和12年)頃から露天掘りで蝋石の採掘が行われていた。
歴史
- 1874年(明治7年) - 上洗馬村・軽井沢村・曲尾村が合併して傍陽村となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、傍陽村が単独で自治体を形成。
- 1958年(昭和33年)10月1日 - 長村・本原村と合併して真田町が発足。同日傍陽村廃止。
地理
- 山:大松山、保基谷岳、オコウ山、高遠山、鏡台山、鳩ヶ峯、大道山、大峯山、東太郎山
- 河川:傍陽川
交通
鉄道路線
出典
- ^ 鈴木明『ある日本男児とアメリカ:東善作、明治二十六年生れの挑戦』中央公論社、1982年11月、225頁。NDLJP:12258939/116。
参考文献
- 角川日本地名大辞典 20 長野県
関連項目
- 傍陽村のページへのリンク