条約とその白紙化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 08:57 UTC 版)
「ポーランド・プロイセン同盟」の記事における「条約とその白紙化」の解説
条約は1790年3月29日に調印され、4月23日に調印された。両国の間には相互防衛同盟が結ばれ、一方が第三国に侵略された際に他方が援護することが決められた。 条約締結後に立て続けに起こった出来事により、プロイセンにとっての同盟の価値は大きく低下していった。7月27日にライヒェンバッハ条約が結ばれたことで、プロイセンはオーストリアと戦争する危険が無くなり、ポーランドとの同盟の意図は単なるロシアへの対抗という面に絞られた。さらに9月9日、四年セイムはポーランド・リトアニア共和国領の不可分を宣言した。プロイセンはグダンスクとトルンの割譲をポーランドに求めていた(ただしその場合、第三国からポーランドに代償の領土を与える領土補償が想定されていた)ことから、プロイセンがポーランドと長期的な友好関係を維持する意味がますます失われた。1790年の秋、冬には、すでにプロイセンはポーランドを見捨ててロシアとの外交交渉を始めていた。 イグナツィ・ポトツキはプロイセンに次代ポーランド王にルートヴィヒ・フォン・プロイセンを推すことを提案したが、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はエヴァルト・フリードリヒ・フォン・ヘルツベルクの助言を受けてこれを拒否した。プロイセンはあくまでも領土割譲を求めていたのであり、下手にポーランドに手を貸してポーランドが強大化すれば、第一次ポーランド分割の際の領土返還を要求される危険性があった。1791年に5月3日憲法が採択された際、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は表向きはこれを祝したものの、これはプロイセンにとって憂うべき事態であった。エヴァルト・フリードリヒ・フォン・ヘルツベルムは「ポーランド人は憲法に投票することでプロイセンの王制にとどめの一撃を放ってきた」と述べ、ポーランドの強大化に対するヨーロッパの守旧派たちの不安を代弁した。1791年7月26日、英独蘭三国同盟は事実上ロシアの要求に屈する形で瓦解し、プロイセンとロシアの友好関係は不動のものとなった。一方ポーランドはスウェーデンとの同盟を試みたものの失敗した。
※この「条約とその白紙化」の解説は、「ポーランド・プロイセン同盟」の解説の一部です。
「条約とその白紙化」を含む「ポーランド・プロイセン同盟」の記事については、「ポーランド・プロイセン同盟」の概要を参照ください。
- 条約とその白紙化のページへのリンク