杜曾撃破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 09:27 UTC 版)
317年、荊州刺史第五猗は、当時荊州で反乱を起こしていた杜曾と結託して挙兵した。第五猗らは漢沔の地に分けて軍を配備し、さらに平南将軍荀崧の守る宛城へ侵攻した。周訪は荀崧からの書簡を受け取ると、兵を率いて救援に向かい、敵軍を撃退した。 しばらくした後、陶侃は杜弢を討伐する大功を挙げたが、王敦はこれを妬んで広州刺史に左遷した。陶侃の旧将である鄭攀らは王敦に大いに不満を抱き、杜曾の軍に合流すると、王敦が陶侃に代わって荊州刺史に任命した王廙と対抗した。王廙は荊州入りを試みるも杜曾に敗れ、王敦配下の趙誘・朱軌らも杜曾との戦いの中で戦死し、荊州においてその威信は大いに響き渡った。司馬睿が周訪に杜曾討伐を命じると、周訪は8千の兵を率いて出撃した。周訪は左右に軍を分置して自らは中軍を率い、旗幟を高く掲げて進軍すると、杜曾は大いに恐れて先に兵を進めてきたが、周訪の両翼は決して動かなかった。杜曾はその勇猛さで名を馳せていたので、周訪は陣の後ろで雉を射殺して兵士の心を安定させた。さらに一部の配下へ、1度片翼が敗れたら3度陣太鼓を鳴らし、両翼が敗れたら6度陣太鼓を鳴らすよう命じた。周訪はすぐに精鋭800人を選抜して酒を振舞い、軽はずみな行動を取らずに隠密に動くよう命じた。両翼が皆敗れて6度太鼓が成ると、それを契機に精鋭を速攻で杜曾の本陣へ進撃させた。敵軍が崩れると、周訪は太鼓を打ち鳴らしながら突撃を掛け、杜曾を大いに打ち破って1000人以上を斬り殺した。さらに勝ちに乗じて進撃を続けると、杜曾の勢力は一気に崩壊した。杜曾により抑えられていた漢沔の地は全て周訪により平定され、杜曾は武当へ退いた。周訪はこれらの功績により南中郎将・都督梁州諸軍事・梁州刺史に任じられ、襄陽に駐屯した。これにより、ようやく王廙は荊州入りを果たすことが出来た。 319年、周訪は杜曾の守る武当へ奇襲を掛け、杜曾は戦わずして逃走して間もなく捕らえられた。周訪は杜曾を斬首し、第五猗らを王敦の下へ送った。戦後、周訪は安南将軍に任じられ、持節を与えられた。
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